真田氏時代の上田城考/その①

通説を再確認してみる

真田氏時代の上田城の姿について考えようとするなら、まずはその立地や周辺の地形など、全体的な成り立ちとその変遷を知っておく必要があります。

これからご紹介するのは、特に目新しい説ではありません。私自身も『定本 信州上田城』を読んで子供の頃から知っていたくらいの内容なので、詳しい方にはいまさら解説する必要もないくらい常識的なことでしょう。ただ、これらについて分かりやすく説明されたものをあまり見たことがありませんし、なによりその「通説」に対するいくつかの違和感や疑問点が、今後に私が述べる仮説の原点ともなるため、とりあえず一通りの解説をしておきます。

かなり簡略化した説明にはなりますが、大まかな流れだけでもご理解頂ければと思います。なお、ここで使用する図面は全て私の適当な自作ですので、資料的価値は全くありません。

江戸時代の上田城との比較
※画像をクリックすると、江戸時代の上田城との比較図が出ます。位置関係の参考にして下さい

上田城が築城される前の周辺地形は、上図のようであったと考えられています。

矢出沢川と蛭沢川は現在の流路より南側を流れており、今の上田城跡公園の児童遊園地東側付近で合流していたようです。合流地点の西側には広い谷状の地形が展開され、この谷間を西進した川は芳泉寺の東側あたりで流れを南向きに変え、千曲川へと注いでいたようです。
また、蛭沢川流域にはいくつもの沼地が広がっていた様子が古い絵図にも描かれています。

 

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上田城を築城するに当たり、真田昌幸はこの雄大な谷地形が城の防御の要となることを理解していたに違いありません。谷の両岸を結ぶ堤を築いて川の流れを堰き止めることにより、易々と広大な水掘を出現させてしまったのです。現代風に言うなら「ダム湖」みたいなものでしょうか。これ、一見すると誰にでも思いつきそうなアイデアなのですが、実際にこんな巨大な規模の水堀を効率良く生み出せた城って、案外少ないんじゃないかと思っています。

実は、その二年ほど前に同じ真田昌幸が築城に携わったとされている新府城にも、規模こそ全く違うものの、似たようなダム構造の水掘が見られるんです。この時の経験が上田城築城に生かされた可能性も十分にありそうですよね(上田城と新府城の間にはそれ以外の点でも非常に興味深い関係性があると私は考えているのですが、それにつきましてはまた後日)。

 

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谷地形を活用し水堀を築くのと同時に、その北側に新たな河道を開削して矢出沢川の流れをそちらへ移します。この新しい矢出沢川は城の北を守る堀の役割を果たし、上田城の総構えとなります。黄金沢との合流点から一直線に西に向かって進む新河道は、現在の高橋付近で直角に折り曲げられて南下していますが、掘削された距離の長さを考えると、これは相当に大掛かりな工事であったことでしょう。もしかしたら上田城の築城で最も労力が費やされたのは、城の内郭部よりも、むしろこの新しい矢出沢川の河道開削だったのかもしれません。

 

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次に、蛭沢川の流路を北向きに変更します。これは、守備的に手薄であった城の北東方面の防御力強化を目的としたものと考えられます。この新しい蛭沢川は、矢出沢川と水堀の間を西進し、途中で水堀への給水も果たしつつ、高橋の下流で矢出沢川に合流していました。

 

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おそらく、当初の予定では蛭沢川はそのまま北へと伸ばして矢出沢川と合流させ、水堀への給水には別の水路を確保する計画だったのではないでしょうか(上図のようなイメージ)。しかし、蛭沢川の開削工事が途中まで進んだところで思わぬ誤算が生じたと考えられます。

 

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その誤算とは、まだ開削されたばかりであった矢出沢川の河床が蛭沢川のそれよりも高く、計画通りに水を落とし込むことが出来なかったということ。そこで急遽計画が変更されて、西へと向かう別の河道が新たに開削され、そちらへ蛭沢川の水が通されたようなんですね。

この矢出沢川と水堀の間にあった水路は、以前から私の中でその存在が謎だったのですが、このような苦肉の策として生まれたものだと考えると納得がいきます(実際、江戸時代に入って矢出沢川の河床が下がると、蛭沢川は矢出沢川に短絡コースで直結されています)。

 

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外郭の変遷を説明するために省略していましたが、当然のことながら城の内郭工事も同時に進められていました。ここではとりあえず江戸時代初期に仙石氏が復興した上田城の様子を示しておきますが、真田氏時代もこれとさほど大きな違いはなかったと考えられています。
ただ、全く同じだったかと言えばそうでもなく、随所に多少の相違点は見られるでしょう。それについては次回以降、私の仮説をいくつか述べていきたいと思います。

 

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最終的な上田城の姿です。前述のように、蛭沢川が矢出沢川にショートカットで直結され、矢出沢川と水堀の間の水路が消滅しています。築城前の姿との違いには驚かされますよね。

 

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ところで、真田氏が上田城を築城する以前、同地には小泉氏の館があったといわれており、それは城内に「小泉曲輪」という名称としても残されています。館は現在の上田城本丸より西側に位置していたとされ、もし築城以前の地形が通説の通りだったとすれば、上のような舌状台地を堀切で割った連郭式の城館だったかもしれません。これもなかなかに興味深い。

 

多少脚色は加えましたが、以上が通説における上田城の成り立ちの概要です。特に「谷地形の川を堰き止めることで広大な水堀を誕生させた」という点には感心させられるばかりで、子供の頃にこれを知った私は「さすが真田昌幸は天才だ!」とすっかり心酔させられたものです。件の川を堰き止めた堤の上の道路は、高校時代に通学路としても利用していたため、毎日そこを通るたびに「実はこの場所こそが上田城を誕生させたヒミツなのだ!」と内心でニヤニヤしていたのを思い出します。

さて、ここでご紹介した「通説」、大筋においては異論もなく、全くその通りだと納得するものの、細かい部分については以前から疑問に思う点が何点かありました。その一つ一つは重箱の隅をつつくような本当に些細な疑問にすぎないのですが、それらを全部まとめて頭の中で妄想を膨らませると、意外と不思議なものが見えてくるもので…。

 

参考文献:『定本 信州上田城』(郷土出版社)

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