お城巡り / 染屋城

名も無き小城と上田合戦

秀忠軍の本陣?

前回の真田郷巡りの最後に、ご一緒した吉池さんに案内して頂いたのがこの染屋城。上田の市街地からほど近い場所にあるにもかかわらず、私にとっては初めての訪城となりました。

染屋台地の段丘際にある非常に小さな城跡であり、築城された年代や築城した人物はおろか誰が守っていたのかさえ分からないという、まさに「名も無き小城」ではあるのだけれど、この城には歴史の中でほんの一瞬だけ光が当たった時期があるのです。それは1600年、天下分け目の戦いに向けて行軍をしていた徳川秀忠軍が上田城に籠城する真田軍と対峙したいわゆる「第二次上田合戦」の時でした。上田城を間近に一望することができる染屋ヶ原の台地上に布陣した徳川軍の本陣が、この染屋城に置かれたとも言われているそうなんです。

確実な証拠は残っていないようですが、もし徳川軍が染屋ヶ原に布陣したというのが本当であるとするならば、至近距離から上田城を望める染屋台地の段丘際にあり、小規模とはいえ既存の城郭施設があったこの地に本陣が置かれたというのは、ごく自然な話のようにも思えるんですよね。背後面を脅かす存在であった砥石城を事前に真田信幸に攻めさせて押さえていたこともあり、その圧倒的なまでの兵力差を考えるなら仮に上田城方面(段丘の下段側)からの攻撃を受けたとしても十分に耐えられる防御力は備わっていたように見えますので。

まずはその染屋城の位置を確認してみます。城跡は上田城から東へ約2キロメートルほどの場所にあり、河岸段丘によって形成された染屋台地の南西部の断崖上に築かれていました。

地図のみではその立地を把握するのが難しいので、今度は地形図を使って見てみましょう。

染屋城の立地
※国土地理院の標高図を加工したものです

上田城も千曲川の河岸段丘を利用して築かれた城ではありますが、染屋城のある染屋台地はそれよりもさらに規模の大きな河岸段丘で、城はその南西の段丘際に設けられていました。こうして見ると、距離的にも上田城とは目と鼻の先に位置していたことが分かりますよね。

染屋城の地形上図の赤丸部分を拡大したところ。段丘崖と深い谷に挟まれて舌状となった地形を利用しており、主郭は南端部に置かれ、そこから北側方向に堀切で郭を重ねた連郭式の縄張りです。

城跡の説明板①

城跡には大河ドラマとの関連もあってか立派な説明版が置かれていました。解説文によればこの城は「大熊屋敷」とも呼ばれていたようですね。真田氏が上田城の支城として配置した城館ではなかったかとのことですが、上田城が築城される以前から存在していた地元豪族の居館という可能性も否定は出来ません。ただ、もし本当に真田氏時代の支城であったのなら第二次上田合戦の時点でも現役の城として機能していたことになるわけで、徳川軍が本陣を置くのに絶好の場所ではなかったかとも思えます。なにより上田城が真正面に望めますし。

城跡の説明板②説明板右上に「染屋城跡要図」というのがありました。これを見れば城の構造がよく分かるかと思います。上田城の支城、つまりは真田氏に関連する城郭の一つとして見るなら、その縄張りに名胡桃城との類似性が感じられたりもするのですが、このような立地に城を築けば必然的に連郭式の構造にはなってしまうものでしょうから、なんとも言えないところです。

道の折れなお、北側から城跡へ入る手前の部分で道が2か所ほど折れている場所があり、これがもし虎口の名残りだと仮定するなら、現在も痕跡が残る二重の堀の外側にはもう一重の堀または土塁、柵等で区切られた別の郭が存在していたという可能性も考えられるかもしれません。

 

城内を歩いてみる

それでは、その北側の外郭部の虎口らしき道の折れの場所から見ていくことにしましょう。
※撮影場所は右下の地図(クリックで拡大します)でご確認下さい。
染屋城①

撮影場所:北から南、つまり城外から城内方向を見たところ。道路がこの付近で不自然に屈曲しています。また、その曲がり角部分にお地蔵さまや石仏などが祀られていることからも、かつてこの場所が何らかの境界点だったのでは?という印象を受けますね。ただ、周辺には堀や土塁の痕跡のようなものは見受けられません。

染屋城②

撮影場所

:上の場所から少しだけ進むともう一つの道路が折れ曲がった場所に出ます。この屈曲部の両側には堀の遺構と思われる地形が東西方向に残されており、写真のようにその西側部分は現在では崖下へと通じる道路として活用されています。

染屋城③

同じ場所から反対の東側を見たところ。こちらにも一定幅の低地が続いており、防火用水槽(手前のコンクリートで蓋されている部分)や民家の庭池として利用されているようです。

 

染屋城④

撮影場所:さらに南へと進んで、主郭部の手前に設けられていた堀跡と思われる場所を見ています。こちらは西側の部分で、やや不明瞭ではありますが写真中央付近に堀の痕跡らしき地形(窪地状になった段差)が残っていることを確認できます。

染屋城⑤

同じ場所の反対の東側。こちらはかなり明確に堀切の遺構が現存しています。おそらく上で見てきた3つの堀跡も、かつてはこのような急傾斜の深い谷状になっていたのでしょうね。

 

染屋城⑥

撮影場所:主郭内の北東隅部分の土地は周囲よりも一段高くなっており、城内でも特別な場所であったことが窺えます。徳川軍の本陣がこの城に置かれたのが本当だとするならば、秀忠が座していたのはこの主郭の上段部分であったことでしょう。

染屋城⑦

現在、その主郭の上段部分は「豊染英(とよそめはなぶさ)神社」の境内となっています。

 

染屋城⑧

拝殿に向かって左側(北側)にはお社が祀られている小高い場所があるのだけれど、これはもしかすると残存土塁の一部かもしれません。このすぐ裏側はで見た東側の堀切なので、堀の造成時に出た土砂を盛ることにより主郭上段部前面の守りを固めたのかもしれません。

 

染屋城⑨

主郭内から見渡す上田盆地。この城跡がかなり高台に位置していることが分かりますよね。ただ、ここから上田城を望もうとするなら崖際の近くまで行かなければならないのですが、農地となっているためにこれ以上前には進めません。そこで、代替手段としての場所から崖下へと通じている道の途中(主郭の直下)から上田城方面を眺めてみることにしました。

 

染屋城⑩

撮影場所

:城跡から崖下へと続く道の途中から西側を望んでいます。中央の右奥寄りに杉木立が密集して茂っている場所が上田城。この写真は標準レンズで撮影をしていますので、実際に肉眼で見るのとほぼ同じ距離感と考えて頂いて構いません。

 

 

さて、この光景を実際に目にした私と吉池さんの意見は、妙に秀忠に同情的な方向で一致をしてしまいました。今でこそ宅地化が進み近代的な建物群の奥に僅かに頭を覗かせるだけとなってはいますが、真田氏時代の姿を想像してみるに、当時の上田城は一面に田畑や湿地の広がる何もない平地の中央にほとんど丸裸に近い状態でポツンと佇む典型的な田舎の小城、くらいにしか見えなかったに違いないんですよね。そんな上田城と圧倒的な兵力差をもって対峙した徳川軍が「あんな小城であれば簡単に落とせる」と思ったとしても何ら不思議ではありません。以前の第一次合戦時に悩まされた側面や背後からの伏兵攻撃に対する心配も、事前に砥石城を押さえることによって大部分は解消されていたはずですし…。まあ、簡単に落とせるかどうかは別にせよ、少なくとも相手を降伏させること自体は容易だろうと秀忠が楽観視してしまったとしても、これは決して責められない判断であった気はするんですよ。

秀忠の判断に誤算があったのだとすれば、それは相手が運悪くあの真田昌幸であったこと、そして真田が援軍のあてもないのに大軍勢を前に籠城戦を選択したというその意図を十分に汲み取れなかったことなのかもしれません(昌幸が籠城を選んだ本当の真意については現在に至るも謎のままなわけで、それを秀忠に察しろというのが無理な話なんでしょうけど)。

これは後日譚なのですが、今年の夏に上田市立博物館で行われた企画展「信之のまちづくり―金井家文書にみる真田氏の藩領統治―」に行かれた吉池さんから伺った話によりますと、現在の上田城下に見られる海野町・原町を整備したのは真田昌幸ではなく、信之が関ヶ原後に行ったものなのだそうで(整備を任された家臣の金井善兵衛宛ての信之の書状が残されている)、それによると既に上田城下にあった海野町を別の場所に移転するとともに、原之郷から町人を呼び寄せて原町とし、新たな町割が行われたのだとか。つまり、信之が整備するまでは現在の場所に海野町や原町といった城下町は存在していなかったことになるわけで、移転される前の海野町も含め、昌幸時代の城下町のほとんどは惣構えの内側に収まる程度の範囲であった(当時は武家屋敷と町人町との区別がそれほど明確ではなく混在していた)と考えられるようなんですね。ということは、関ヶ原以前の上田城をこの染屋城から眺めたとすると、惣構えの手前付近までは民家もまばらな荒地や田畑が広がっており、その向こうに小ぢんまりとまとまった城下町と城が見えたことになるわけで、なおさら「田舎の小城感」は際立っていたに違いありません。手痛い過去があるとはいえ、大軍勢の徳川軍がその慢心から上田城を再び侮ってしまったのもむべなるかな、といったところではないでしょうか。

 


今回の染屋城への訪城は、時間的な制約もあって城跡を簡単に一巡する余裕しかありませんでしたが、最大の収穫だったのは、この城から上田城がどのように見えるのかを実際に体感できたことです。普段は真田方の視点のみで見てしまいがちな上田城を、攻め手の徳川方の視点から眺めるというのは不思議な感覚でしたし、第二次上田合戦での判断をもって秀忠を無能呼ばわりするのも少し気の毒に思えてしまったりもしました。見るべき箇所はそれほど多くはないものの、歴史の中でこの城にも一瞬だけ光が当たった時期があったこと、そしてそれが後の時代に与えた影響の大きさまで含めて思いを巡らせるなら、なんとも味わい深い存在の城跡であることは確かでしょう。まあ、若干ほろ苦い味わいではありますけれどね。

 

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