真田氏時代の上田城考/序説

私と上田城

現在、大河ドラマ『真田丸』でも大変に盛り上がっている上田城。

まずは、その上田城と私自身との関係についてから書き始めたいと思います。

私も地元の上田市出身ですので、子供の頃から上田城は非常に身近な存在でした。しかも、出身中学校がお城の入口横にある市立第二中学校(旧上田藩校「明倫館」跡)、出身高校が県立上田高等学校(旧上田藩主邸跡)と、どちらも上田城との関係が深い学校であるため、お城好きであるということを除外したとしても、相当に強い思い入れというのはあります。

上田市立第二中学校旧校舎
取り壊し直前の第二中学校の旧校舎。懐かしいです
上田高校正門
上田高校の正門。通っていた頃は何とも思いませんでしたが、今見ると本当に立派な校門です

ちなみに、もう一つ上田城と関係のある学校が市立清明小学校(旧中屋敷/作事場跡)で、この清明小学校から第二中学校、そして上田高校へと進むと、上田城と関連する学校3校をコンプリートしたことになるんですね。私は小学校だけが違っていたので、この清明小学校出身の友人たちのことを少し羨ましく思っていたりもしました。

学校の場所が場所だけに、写生の授業などがあればもちろん上田城跡公園内で行いますし、上田高校の第二グラウンドは城の一番西側の「捨堀」と呼ばれた堀跡にあるので、公園内を通って体操の授業にも向かいました(観光地化した現在ではどうしているんでしょう?)。どころか、そもそも私は高校時代、上田城の中を抜けて学校に通っていましたので、お城は通学路の一部でもあったわけです。まだ当時は「上田城」といっても知る人ぞ知る存在で、たまに観光客の姿を見かける程度の、いわゆる「市民の憩いの場」といった雰囲気でした。ですから、現在の盛況な光景を見ると本当に隔世の感があります。

さらに私的なことを言わせてもらいますと、我が小岩井家は、真田氏と同じ海野一族の中の海野岩下氏(会田岩下氏)という一族の末裔なんです。真田氏よりもずっと以前に分かれているので、遠い遠~い親戚、といった間柄でしょうか。信濃先方衆として武田に仕えていたようですが、時の当主が勝頼に従って討死、その後に旧領を回復した小笠原氏によって館を攻められて滅亡、同族の真田氏が治める上田へと落ち延びて帰農したようです。家系図には初代が塩尻村の村長、二代目が庄屋になったと書かれていますので、真田からはそれなりに厚遇はされていたようですね。現在の家紋は洲浜紋。

ところで、その私の家がある塩尻地区には、不思議と武田氏・真田氏と関連した名字の家が多いんです。馬場、春原、原、清水…。想像するに、上田城の築城にあたって上杉の軍勢が塩尻地区の裏山である虚空蔵山に陣を張り、工事の妨害活動をしたといわれていますので、これを監視・偵察するためにも、信頼の置ける家系の者たちが意図的に配されたのではないでしょうか。小岩井家の初代、小岩井(岩下)清吾が塩尻村に移り住んだのが天正11年。これはまさに真田昌幸が上田城を築城した年でもあるのです。

さて、こんな私がお城好きで、しかも前回も書いたように、小学生の頃から上田城の図面を眺めては空想を巡らせて、それが現在に至るまでも続いているのですが、最近になって一つ思いついたことがあるので、それについてこれから数回に分けて書いてみたいと思います。
基本的に文献とか史料はほとんど読まない完全妄想型の人間ですが、真田氏時代の上田城に限ってはその参考となる材料がほぼ皆無。むしろ想像の羽を自由に伸ばすのに好都合だったりもします。まあ、一つの夢物語とでも思ってお読み下さい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です