真田郷巡り / 山家の真田氏館跡とその周辺

真田一族発祥の地

 

真田郷とその周辺

今頃になりましたが、昨年の年末に上田城研究仲間である吉池さんと共に真田郷巡りをしてきましたので、その時に撮影した写真を交えながら簡単に振り返ってみようかと思います。

今回の真田郷巡りでメインとなったのは、真田一族の発祥の地ともされる山家(やまが)に残る屋敷跡とその周辺。近くの山家神社や長谷寺には以前から何度も訪れてはいたものの、屋敷があったとされる付近をじっくりと歩いたことはなかったので楽しみにしていました。

まずは場所の確認から。真田郷は上田の市街地の北東部に位置しており、その中でもさらに北東部の奥まった場所にあるのが真田地区(その中心部が山家)になります。これより北はスキー場やラグビー等の合宿地としても有名な菅平高原のある高原地帯(上信越高原)で、また群馬県側へと抜ける上州街道(鳥居峠/現在の国道144号)がここを通っています。

上田盆地周辺の地形図
※国土地理院の標高図を加工したものです

上田盆地よりも奥まった山間部に位置する真田郷ではありますが、上でも述べた上州街道や北信濃の松代方面へ抜ける街道がここを通っており、古くから交通の要衝でもありました。

甲斐から信濃に侵攻した武田軍が、さらに北信濃へ勢力を伸ばそうとして、この上田盆地で埴科(坂城)を本拠地とする村上氏と対峙したというのは有名な話ですが、その際に合戦の舞台となった場所が上図における「千曲川に沿って埴科へ侵入する入口(上田原)」、そして「埴科へ背後面からの侵入が可能となる街道が通る真田郷の入口(砥石城)」の2箇所であったことがその立地の重要性を示しているかとも思われます。武田軍はどちらの合戦にも敗れはしたものの、その翌年に真田幸隆が砥石城を単独で攻略、そして埴科方面へ抜けるもう一つのルートを押さえていた室賀氏が武田方に離反したことによって、村上軍の防衛網は破綻し、武田氏の念願であった北信濃方面への侵出が果たされることとなります。

真田郷を拡大それでは赤枠で囲んだ部分、真田郷の周辺をもう少し拡大して見てみることにしましょう。

真田郷①

上図左下が上田城で、そこから北東へ向かって砥石城、本原の御屋敷、真田本城(この名称については異論も多いですが)、真田(山家)、松尾古城といったように真田氏との関連が深いとされる遺構が数多く点在してます。その中でも特に松尾古城の山麓付近で発見された日向畑遺跡周辺こそが真田一族の発祥の地なのではないか、とする説が有力なようですね。

真田郷②こうして見ると、上田盆地の北東部の山奥に端を発した小豪族が次第に勢力を拡大しながら真田郷全体を手中に収め、ついには上田盆地内へと進出していった様子がよく分かります。

 

山家の屋敷跡

真田(山家)を拡大

それでは今回巡った真田地区の付近をもう少し拡大してみましょう(赤枠で囲んだ部分)。

山家①

同じ場所を地図上で確認真田地区のほぼ中央、山家神社南側の傾斜地の一角にやや規模の大きな削平地が見られ、この場所には古くから真田の屋敷があったとの伝承もあるのだそうです(具体的な場所については右の地図でご確認下さい)。

 

山家②地形面からその立地を見てみると、屋敷地とされる場所は神川沿いの数段に渡る河岸段丘の上段部に位置しており、南側は岩井堂川の深い谷地形に接しています。つまり、河岸段丘と谷地形という自然地形によって屋敷地の西面と南面が守られていることになるわけですね。

 

それではその屋敷地の周辺を巡ってみましょう!(撮影場所は右下の地図に示しています)

山家の屋敷跡①

撮影場所:真田地区内を通る上州街道から屋敷地(写真右奥の建物があるあたり)へと向かって伸びる一本道。「たつ道」と呼ばれるものだそうで、館の正面に通じる道を意味しているのだとか。こうして見るだけでも上州街道沿いの土地と屋敷地があったとされる場所との間にはかなりの高低差があることが分かりますよね。

 

山家の屋敷跡②撮影場所:「たつ道」を進むと、道路が屋敷地の手前で鉤の手状に折れています。館の正面入口における防御機構(桝形)の名残りであると考えられているそうです。

桝形道路・たつ道の説明板
桝形道路・たつ道の説明板

 

桝形の道の折れこの桝形に折れた道路を登りきった上段部分が真田の屋敷跡とされている場所になります。

 

山家の屋敷跡③撮影場所:「真田氏館跡」の説明板。南北約100m、東西60mの面積があるとか。

 

 

山家の屋敷跡④

撮影場所:屋敷地だったとされる場所の外周に沿うような形で細い水路が巡っており、これはかつて館内へと引かれていた生活用水の遺構ではないかとも言われます。

 

 

山家の屋敷跡⑤

撮影場所:屋敷があったとされる平面(左の石垣上)と、その右側に建っている民家の平面とを比べると、この部分だけでもかなりの高低差があることが分かります。

 

 

山家の屋敷跡⑥

撮影場所:屋敷地の北側、長谷寺に続く道路の左脇には一定の幅を持つ窪地が東西方向に連続しており、館の北面を守った堀跡ではないかと考えられているようです。

堀跡?の東端付近

堀跡と思われる窪地は道路に沿ってもう少し上の方(奥に見える民家のあたり)まで続いています。もしかすると現在は道になっている部分も含め、もう少し幅の広い堀だったのかもしれませんね。ただ、堀の内側(屋敷地側)では土塁の痕跡のようなものは見られません。

 

山家の屋敷跡⑦

撮影場所:傾斜地をさらに上って行くと「旗見石」と呼ばれる岩があります。説明板によれば、攻めてきた相手の旗印を見張っていたという言い伝えがあるのだとか。確かにここは遠方の見通しが非常に良く、例えば上の写真では正面に真田信綱の菩提寺であり、かつては別の真田氏屋敷があったともいわれる信綱寺が望めます(中央右奥の低い尾根のあたり)。また、信綱寺との中間にあたる長小学校付近にも屋敷があったとされますが、情報が少なく詳しいことはよく分かりません。

旗見石から北側を望む

反対の北側(横沢方面)の眺めも良好。正面右側の山の尾根筋上に松尾古城がありました。

旗見石の説明板
旗見石の説明板

 

山家の屋敷跡⑧

撮影場所:この付近から長谷寺(写真中央奥)に至るあたりまでは傾斜の緩い平坦性の高い土地が続いています。屋敷地にするなら河岸段丘が連続する狭い急傾斜地の一画などでなく、より高台にあるこちらの方が適地だったのではないかとも思うのだけど、防御的な理由から急斜面上にある方が有利だとされたのでしょうか?

 

 

山家の屋敷跡⑨

撮影場所:これは先ほど見た水路()の上流部になります。段差のある畑の脇などを回り込むようにして流れを屋敷地のある方向へと導いていることが分かります。

 

 

山家の屋敷跡⑩

撮影場所:この水路の水は岩井堂川の上流から引かれて来ています。写真は途中で県道(旧菅平有料道路)の切通しを渡るために設けられた水道橋。農業用水にしては規模が小さく、水量もさほど多くはありませんので、造られた目的を推測するとやはりかつて存在した屋敷地内で使用される生活用水だったのかもしれません。

 

 

山家の屋敷跡⑪

撮影場所:屋敷地があったとされる場所の南面には岩井堂川によって形成された深くて急峻な谷地形が見られ、これがもう少し先の神川との合流点付近まで続きます。

 

 

山家の屋敷跡⑫

撮影場所:ここが屋敷地跡とされている段平面です。急な斜面を削平しているためか、次の段平面との高低差がすごいことになっていますが(5m近くはあるでしょうか)、その上段にあたる敷地内からも過去には大量の古銭が発見されているそうなので、館の内部は上下2段の段構成になっていたと考えられているようです。

岩井堂川の急斜面

上の写真と同じ場所から反対方向を見たところ。手前は岩井堂川の谷により急斜面となっていて、また遠方(西方面)を見渡すことのできる眺望の良い立地であることも分かります。

 

山家の屋敷跡⑬

撮影場所:上から撮られた写真ではあまり実感できないかもしれませんが、このように下流側から見上げてみると谷は想像以上に深く、斜面の角度も急なんですよね。

岩井堂川の対岸から

岩井堂川の対岸から屋敷地(中央の一番高い部分)を見ています。傾斜地の途中にあるとはいえ、やはり周囲の土地に比べればそれなりの高台に設けられていたことは確かでしょう。

 

山家の屋敷跡⑭

撮影場所:現在は緩やかな勾配の車道となっているものの、ここは南側から川を渡れば最短距離で屋敷地にアクセスできた場所ですから、かつてはもっと大きな段差があり、道も屈曲させるなどして厳重な通行監視を行っていたものと思われます。

長谷寺道

車道のスロープがなかったとすると、なかなかの規模の段差があったことになりますよね。なお、屋敷地の南側を通る道は「長谷寺道」と呼ばれ、岩井堂川に沿って長谷寺へと通じていました(の写真に見られる一直線の道路は近代に新しく整備されたものだそうです)。

 

山家の屋敷跡⑮

撮影場所:上の場所から街道側へと少し下ったところにある段差。これがで見られた「たつ道」の屋敷地の正面入口における段差(道が桝形状になっていた場所)と同じものになるわけです。この「たつ道」の1本南側を平行していた長谷寺道が段差を越える部分にもかつては同様の桝形状の折れが設けられていたようです。

 

山家の屋敷跡⑯

撮影場所:上州街道まで戻ってきました。手前の岩井堂川に架かる橋を渡ってすぐ右側のあたりに「番小屋」が置かれていたそうで、かつてはこの場所が真田の集落の入口だったのでしょう。また、左奥に見える山家神社の参道付近にも「番小屋」が置かれていたとのことなので、北は山家神社から南はこの岩井堂川までの間が真田氏時代の集落の範囲だったと考えられます。また、この2つの「番小屋」の前後では街道がクランク状に折れつつ一段下の河岸段丘面へと下っていました。

 

山家の屋敷跡⑰

撮影場所:岩井堂川の南側で街道はクランク状に折れながら河岸段丘を下っています。これは山家神社の北側でも同様で、逆の見方をすれば真田の集落内のみ意図的に街道を一段上の河岸段丘面で通過させるように工夫されていたことになります。

 

山家の屋敷跡⑱

撮影場所:「たつ道」が街道と交わるあたりから少し北側に入ったところ。街道沿いに並ぶ家々のすぐ裏手にこのような河岸段丘の段差が迫っていたことになります。

真田駅跡

上の場所からさらに下ると、道路沿いに昭和47年に廃止された上田丸子電鉄・真田傍陽線の終着駅である真田駅の跡(写真はプラットホームの遺構)が見られます。ということは、この駅は真田氏の屋敷があったとされる場所の直下付近に設けられていたとも言えますね。

旧真田駅前

私の子供の頃はまだ駅舎なども残っていたのだけれど、現在はプラットホーム以外の遺構はほぼ失われています。ただ、周辺には駅前だった頃の面影も少しだけ感じられるような…。

 

山家の屋敷跡⑲

撮影場所:旧駅前の坂を上ると山家神社の前に出ます。真田郷の北東に聳える四阿山の山頂に祀られた神社の里宮とされ、真田一族からも厚い崇敬を受けたようです。

山家神社ちょっと不思議なのが、四阿山に祀られた神社の里宮なのにもかかわらず、本殿が山のある北東の方角ではなく東側を背にして建てられている点。境内の説明板によれば、もともとは近くの岩井堂山を信仰の対象としていた神社に後から白山信仰が伝わって来たのがその理由だとのこと。また、同じく信仰の対象とされていた神(かん)川の名前の由来も、白山信仰ゆかりの地である「加賀」が転訛したもの(加賀川→神川)だと考えられているそうです。

山家の屋敷跡⑳

撮影場所:山家神社の裏側には山から沢が流れて来ており。小さな谷地形があります。

 

 

 

山家の屋敷地周辺を考える①
※国土地理院の淡色地図を加工したものです

それでは、ここまで見てきたの情報をまとめて地図上で簡単に確認してみましょう。
屋敷地とされる場所は西側を河岸段丘、南側を岩井堂川の谷地形に守られた高台に位置しています。北側には堀が設けられ、また内部は上下2段の段平面で構成されていたようです。

山家の屋敷地周辺を考える②真田の集落内を通る上州街道は、その前後にクランク状の折れ(桝形)と番小屋が置かれており、しかもその二点間だけは一段上の河岸段丘面を通過するように工夫されていました。

山家の屋敷地周辺を考える③同様の街道の折れは本原の御屋敷があった原之郷(本原)の南側入口付近でも見られます。上図に丸印で示した部分がそれで、もう一方の北側の入口についてはやや不明瞭なものの、あるいは星印で示したあたりにかつて存在していたのかも?なんて妄想をしてみたり…。

復元案への応用
復元案への応用

ちなみに、前回ご紹介した上田城の復元案でもこの街道の折れを部分的に採用しています。

 

山家の屋敷地周辺を考える④館が存在していた頃の様子を想像図にしてみるとこんな感じになるでしょうか?規模的には決して大きくないのだけど、当時の地方豪族の屋敷としては十分立派な構えだと思います。
おそらく西は神川から東は長谷寺まで、北は山家神社から南は岩井堂川までの範囲が屋敷を中心とする真田氏の本拠地だったと考えられ、それぞれ河岸段丘、山、堀、谷地形によって守りが固められているものの、よく見てみると若干不安になる箇所があることも確かです。

山家の屋敷地周辺を考える⑤それは屋敷地の北側。堀が設けられているとはいえ、河岸段丘の最上段部を北から敵に侵入されると守る術がありません。もっと北側の横沢地区を流れる角間川付近を最終防衛ラインとしていた可能性も否定はできませんが、やや距離が離れすぎている上に、どちらにしても館の北側が手薄であることには変わりないでしょう。私の個人的な意見を述べさせてもらうなら、ひょっとすると真田氏によるこの山家の屋敷地周辺の造成は未完成のままに終わってしまったのでは?とも思えるんです。本来はもう少し整備をする予定ではなかったのかと。

山家の屋敷地周辺を考える⑥例えば上図ので示した場所にはで見られた小さな沢があるのですが、この沢はちょうど山家神社の裏側、つまりは上州街道がクランク状に折れている付近を横切っていますので、もしこの沢沿いに堀や土塁が設けられていたとすれば北側の守りはかなり強化されたように感じるんですよね(さらに言えばの尾根上に小さな砦などがあれば完璧だったかな?)。

そして、この北側の守りが固められることにより、私がもう一つ気になっていた場所である長谷寺手前のなだらかな傾斜地の存在が浮かび上がってくるように思えて仕方ないのです。

でも述べましたが、このなだらかな傾斜地は屋敷地とするのに非常に適した土地であり、真田氏も将来的にこの場所に別の館、例えば当主(時代的に言えば幸隆)が隠居後に暮らすための屋敷などを整備するつもりではなかったのかと。長谷寺に向かう道が、かつてはこの傾斜地部分を避けるかのように岩井堂川の対岸へ迂回していたことも、その名残りのように見えてしまいますし…。ただ、幸隆は晩年まで武田家臣として上州支配の任務に忙殺されて真田郷で静かな余生を過ごすことは叶いませんでした。また、上州支配が安定している間は北から敵に攻められる心配もないため、館周辺の整備は後回しにされたのかもしれません。

長谷寺①

長谷寺の入口には桝形が設けられています。説明板によれば禅宗の寺の入口によく見られる構造のようですが、もしかするとこの付近から奥の部分を要塞化する計画があり、その大手虎口の遺構の一部だったりするのでは?などと妄想が膨らみます。本来ならば館とセットで存在するはずの「詰の城」が、山家の屋敷においては不明確である点も(松尾古城がそれにあたるとの意見もありますが)、整備に手が回らなかった結果のように思えたりもして…。

長谷寺②長谷寺の参道。そんな妄想視点だと、この境内の段差もなにやら意味ありげに見えてきますよね。戦国時代の山城の場合、城内にお寺があることもそれほど珍しくはなかったですし。…なんて、これはあくまで冗談半分のお話ですので、あまり本気にはなさらないで下さい。

長谷寺③長谷寺の本堂。雪のためか、この裏側にある幸隆夫妻・昌幸のお墓は非公開でした。残念!

 

日向畑遺跡

山家の屋敷周辺の散策を終えた後、次に向かったのが真田一族の発祥の地とも言われている角間渓谷の入口にある日向畑遺跡。山家の集落からは北東に約1kmほど離れた場所です。

日向畑遺跡の場所冒頭の地図でもう一度確認してみると、日向畑遺跡は図の右上、松尾古城がある山の南麓、角間川が神川と合流する少し手前あたりの山際の斜面に開けた狭い平地に位置しています。

日向畑遺跡とその周辺①角間川沿いの道路から見上げたところ。山腹に僅かな平坦地があり(写真中央)、この場所から五輪塔などの大量の墓石類が発見されています(日向畑遺跡)。古くからこの一帯には真田の屋敷が存在したとの伝承もあったそうで、この地こそが山家に屋敷を構えるより以前の最初の拠点、つまりは真田一族の発祥の地ではなかったかとの説が有力視されています。

日向畑遺跡とその周辺②地中から数多くの五輪塔や宝篋印塔などが人為的に破壊されたと思われる状態で発見されたそうで(現在は写真のような状態に復元されています)、その祖先の墓所を破壊して埋めてしまうという行為の裏にはただならぬ事情があったものと察せられますし、真田一族の出自についても謎な部分が多いことから、この発見はさまざまな憶測を生む結果となりました。

よく聞かれる説としては

  1. 天文10年(1541年)、海野平の戦いに敗れてこの地を追われた真田氏が、敵方に祖先の墓を荒らされないようにするため、自ら墓所全体を地中に埋めて隠したとする説
  2. 海野本家の没落後にその直系を名乗った真田氏が、血筋の正当性を主張する際に不利な物証となる可能性が高い彼ら一族の墓所を埋めることで、その存在を隠蔽したとする説

の2つがあるのですが、どちらの説もいま一つ説得力に欠けるというか、疑問に思える点があるんですよね。例えば1の説の場合、なぜ真田氏が領地回復後に墓所を復興しなかったのかという謎が残りますし、2の説の場合、はたして名目を得るためだけにそこまでする必要があったのか(わざわざ破壊・隠蔽までしなくても、海野一族と婚姻関係を結んだ地元豪族の墓とでもしておけばよかったのでは?)とも感じるのです。また、最近知った説としては『城びと』というサイトの連載コラムで歴史学者の平山優さんが紹介されていた「真田幸隆(文中では幸綱が真田家の嫡流ではなかったから」というものがあるそうで、これは墓所が埋められた理由が上記の1の説、復興されなかった理由が2の説とされており、なかなか興味深いものでした。いずれにせよ、このあたりの歴史や経緯に不明瞭な部分が多い点が、真田一族に謎めいた存在感を漂わせる最大の要因となっていることは間違いないでしょう。

日向畑遺跡の説明板
日向畑遺跡の説明板

日向畑遺跡とその周辺③

遺跡の北側にある小規模な平地。この付近に真田氏の最初の館が置かれたとも言われます。

日向畑遺跡とその周辺④平地の脇にある小さなお堂(阿弥陀堂)。かつてここには一族の菩提寺だった常福院というお寺があったとの記録も残されているそうで、このお堂もその名残りなのかもしれません。

日向畑遺跡とその周辺⑤お堂の裏側には安知羅明神が祀られています。これもまた一族の氏神だったのでしょうか?

日向畑遺跡とその周辺⑥阿弥陀堂や安知羅明神のある場所から少しだけ東側へと移動しました。ここからだと正面に真田地区(中央奥の杉木立が山家神社)、そしてその先の西側方面までもがよく望めます。

日向畑遺跡とその周辺⑦上の写真の場所から振り返ったところ。この付近は土地が開けており、真田氏の館があったとすれば、日向畑遺跡横の狭い平坦地よりもむしろこちら側だったのでは?とも思えます。

日向畑遺跡とその周辺⑧背後に見える山の尾根筋上に松尾古城があって、登城路はその南斜面に設けられていたともされており、もしかするとこの農道こそがかつての大手道だったりするのかもしれません。

日向畑遺跡とその周辺⑨そんな妄想視点で眺めているからでしょうか、この無意味なまでに鋭角的な畑地の角部分の造形なども妙に意味ありげに見えてきてしまうのだから面白いものですよね。もちろん石垣などは真田氏時代のものではなく、近世になってから積まれたものなのでしょうけれども。

日向畑遺跡とその周辺⑩日向畑遺跡とその周辺を地図上で確認。この山間深くにある猫の額ほどの土地こそが、後に歴史に名を残す真田一族の発祥の地だなんて、なんともロマンのある話ではありませんか!

 

おまけ

御屋敷近くから望む上田盆地

今回の真田郷巡りでは、本原の御屋敷にも立ち寄っています。ただ、この屋敷地についてはまだその立地や周辺地形との関係などの面で未考察な部分も多いため、また別の機会にでも詳しく触れてみたいと思っています。写真は御屋敷の近くから望む上田盆地。こんな光景を眺めていたら「いつかはあの盆地を手中に!」という野心が起きても仕方ありませんよね。

本原の御屋敷

本原の御屋敷跡には皇太神社が祀られています。山家の屋敷、本原の御屋敷、そして上田城の本丸でも共通して見られるのが敷地内における段差。もともとの地形が最大の理由なのは確かなのだけど、もしかすると何らかの独自の価値観が反映された結果だったりもして!?

本原の廣山寺

原之郷(本原)の中心部に建つ廣山寺。真田幸隆の創建とも伝わる曹洞宗のお寺です。本堂の箱棟や屋根瓦などにあしらわれた六文銭の紋が真田氏との関連性を物語ります。余談ですが、大河ドラマ『真田丸』のオープニングに登場した鬼瓦はこのお寺の山門のものだとか。

御北之塚

お寺裏の墓地にある「御北之塚」。幸隆の長男(昌幸の兄)であり、長篠の戦いで戦死した真田信綱の夫人のお墓だそうです。墓碑自体は江戸中期頃に建てられた比較的新しいもの。

廣山寺から見た砥石城廣山寺の山門付近から正面に見える砥石城のシルエット。冬になると、あちこちの山の稜線にこういった山城の姿が浮かび上がってくるのが楽しいんです。登るのは大変だけれど…。

 

なお、先ほども少しだけ触れましたが『城びと』というサイトのコラムで歴史学者の平山優さんが日向畑遺跡、山家の屋敷、本原の御屋敷、砥石城などについて非常に興味深い考察をされていますので、ぜひご覧になられることをお勧めします(コラムの一覧は→こちら)。

個人的には幸隆が真田家の嫡流(長男)ではなかったとする説、そして昌幸もまた総領ではなかったが故に本原の御屋敷を使えなかったのではないか、とする説が面白かったですね。本原の御屋敷については、形だけはしっかりと整備がされているのに、なぜか不思議と実用された気配が希薄に感じられる点が謎だったのですが、この「昌幸には御屋敷を使用できる資格がなく、砥石城に本拠を置いたのではないか」という説はとても納得されられるものがありました。せっかく新しい館を整備したものの、直後に信綱が戦死してしまい、その後は未亡人の於北の方が独り寂しく暮らしていた…とするなら、なんとも悲しいお話ですよね。

 


というわけで長々と書き連ねてしまいましたが、今回の真田郷巡りについてはこれで終わりです。いままでじっくりと歩き回ったことがなかった山家の屋敷の周辺や、日向畑遺跡などを訪れることが出来たので大変楽しかったですね。次は砥石城でも探索してみましょうか?と吉池さんに誘われてもいますので、その際はまた記事にしてみたいと思います。それではとりとめもない長文にお付き合い頂きまして、どうもありがとうございました。また次回!

2件のコメント

  1. 真田屋敷の近くでそれなりの集落とはいえ、よくもまあこんなところに鉄道を通したものだと不思議に思っていました。本当はここで終わらずに菅平とか松代に抜けたかったんだろうという事が見えてきました。良しんば抜けたとしてもどうなった事やら。

    1. ねこあたま様

      開業当初は傍陽線を延伸させて松代まで繋げようという計画もあったようですね。

      歴史好きの人間にとってみれば
      もし真田と松代が鉄道で結ばれていたとしたら何とも胸が熱くなるものがあったでしょうが、
      長野市の中心部ならまだしも、松代まで伸ばすことにどれだけの意味があったか疑問ですし、
      そもそも起点の上田から真田までの区間ですら決して線形の良い路線とは言えなかったため
      国鉄+長野電鉄経由のルートに勝ち目はない、という結論に至ったのではないかと思います。

      ただ、そうは言っても「傍陽線が松代へ、そして真田線が菅平まで伸びていれば…」という
      妄想はしてしまいますよね。これが廃線や未成線に感じるロマンというものなのでしょうか。

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