真田氏時代の上田城考/その③

  既存の復元案を見てみる

上田城の復元案は数多くあるのでしょうが、インターネット上で「真田氏時代/上田城」と画像検索してみると、下図のような復元案が出てきます。詳しく調べていませんが、現時点でこれが最もメジャーなものかもしれません。模型が作られ販売もされているようですし。

今回はこの復元案を分析することで、真田氏時代の姿を考える際の重要ポイントをチェックしたいと思います(画像は私が模写したものです。解釈に誤り等あればお知らせ下さい)。

今回は「縄張り」について論じたいと思うので、建物類は省略しています

 

江戸時代中期頃の上田城の様子と比較すると上図のようになります。全体的に復元案の方が角の取れた丸っこいイメージを受けますね。あと、北側の水掘の大きさも違って見えます。

さて、この復元案は何を根拠として作られているのでしょうか。それを考える上で最重要となるのが『天正年間上田古図』の存在です(こちらで細部まで鑑賞することが出来ます)。

比較がしやすいよう、私が模写したものではありますが、以下に掲載しますので参考程度にご覧下さい(あくまで個人的な模写なので、資料的な価値はありませんからご注意を!)。

天正年間上田古図(模写) この『天正年間上田古図』、河川の流路の把握を目的として描かれたものと思われるため、城郭部の描写の正確性については疑問の声が多いのも確かです。しかし、真田氏が上田城を築いた当時の姿を記録した絵図はこれ以外に存在せず、第一級の史料であることに間違いはありません。上掲の復元案もまた、この絵図の内容に最大限の敬意を払い、その情報を丹念に拾い上げて再現していることが分かります。それでは、もう少し詳しく見てみましょう。

復元案詳細①

復元案の本丸部分の拡大図です。赤丸のように、北に1つ、東に2つ開かれた虎口の場所と形態は上田古図に描かれた情報を忠実に再現していますね。西の虎口(点線の赤丸)だけはオリジナルのように見えますが、上田古図の該当部分をよく観察すると、微妙に角を欠いたように描かれており、これが小さな出入り口を意味すると解釈されたのかもしれません。

なお、青丸で示しているようにこの復元案では本丸北西部に天守閣に相当する櫓が描かれています。第一次上田合戦の時の徳川方の記録に「殿守(天守)も無き小城」と書かれていることから、上田城には天守閣がなかったとも言われていますが、当時はまだ築城を開始してから2年しか経っていない時期であったことは考慮する必要があります。

その後の豊臣政権下での安定期に城郭の整備が進められた可能性は十分に考えられますし、同時期の周辺城郭を見ても、天守閣はもれなく建てられていた状況でした。なにより、同じ真田氏の沼田城に五重の天守閣があったのですから、上田城にないのはむしろ不自然です。なので、私も上田城に天守閣はあったと思っています。場所は織豊系の城郭に多く見られる本丸の北西部、つまりは上の青丸のあたりと考えられ、実際にその直下の堀底からは金箔瓦が出土していたりもします。まあ、現状ではこのあたりは空想で補うしかない部分なので、私も復元案と同意見で「天守閣は本丸北西部に存在していたと思う」とだけしておきます。

復元案詳細②

続いて堀の形状について考えたいと思います。復元案の本丸の堀(赤線)が微妙なカーブを描いているのは、前回ご紹介した仙石忠政の「おぼへ書」にある「古城の歪みは~」という記述を意識したものでしょう。本丸の堀と二の丸の堀を結ぶ水路(黄線)は、上田古図にも描かれている通り。この水路もまた不思議な湾曲をしていますが、おそらくは二の丸北側の虎口周辺が上田古図では半島状になっているのに合わせようとしたのではないでしょうか。

二の丸の掘(緑線)は、仙石氏が復興した上田城のそれより幅がかなり狭く描かれており、その形状的にも堀の原型となった矢出沢川の旧河道の谷地形を意識していると思われます。

興味深いのが青丸で示した部分で、上田古図中央の水路で方形に囲まれた場所に相当すると思われるのですが、一般的な解釈では後に「中屋敷」と呼ばれる場所(現在の清明小学校)だとされているところを、その北西にある、後に「樹木屋敷」と呼ばれる場所だと解釈している点が新鮮ですね。これにより、その南側に描かれた柵が、現在の二の丸東側の堀と同じ位置だと考える際に生まれる矛盾を解決しているようです。

以上のように、この復元案は『天正年間上田古図』に描かれている情報を忠実に拾い上げ、仙石忠政の「おぼへ書」の内容も加味し、現状との矛盾点も解消しようとする非常に誠実で考え抜かれたものだと思います。ただ…

 

ただ、根っからの城好きとして言わせてもらうと、この城はちょっとありえないんですよ。

復元案詳細③

戦国時代に臨戦を念頭に築かれた城郭として、上のように無防備極まりない平入りの虎口が大手側に向かって3つも並んでいるというのは、守備的にどう考えても弱すぎます。しかも本丸に至ってはその2つが近接して並んでいるという(どちらも内枡形を指向した虎口ではありますが、そもそも、本丸まで障害らしきものが全くないままに到達できてしまうことが最大の問題点なのであって…)。復元案の原図を見る限りでは、建物の配置等によってこの欠点を補おうとしているようですが、う~ん、城の縄張りとしてこれはどうなんでしょう?

対処的な提案としては、各虎口に武田お得意の丸馬出を設けるという手があります。しかしそれは上田古図には描かれていませんし、そもそも真田氏の城郭には武田系の武将の城とは思えないほど不思議と丸馬出が使われないんですね。どちらかというと、枡形虎口を細かく幾重にも重ねるイメージの方が強いです。「真田は城の縄張りの複雑さによってではなく、その華麗なる戦術によって敵を撃退したのだ!」と主張される方もいらっしゃるでしょう。しかし、この復元案はそれ以前の問題を抱えているように思うんです。

なんだか全否定をしているように思われるかもしれませんが、意外なことに、私の着目点はこの復元案とほぼ同じ部分であり、天正年間上田古図を最大限に尊重するという点も同じ。しかし、解釈がちょっとだけ違うのです。詳しくは次回からの仮説に書きたいと思います。

 

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