真田氏時代の上田城考/現地を歩いてみて

新たなる妄想

 

今頃になってしまいましたが、今年の夏に帰省した際に上田城周辺の気になっていた場所をあちこち歩き回ってきましたので、その簡単な結果報告をしておきたいと思います。ご一緒したのは当ブログにコメントを頂いたことでお知り合いになった吉池さん。当日は興味深い資料をたくさんお持ち頂いて、日が暮れるまでお城の中から周辺をぐるぐると巡り、休憩中にも図面とにらめっこしながら「あーでもないこーでもない」と盛り上がっておりました。

 

上田盆地の地質について

さて、その吉池さんに教えて頂いた論文(こちらで見られます)と、ちょうど同時期に城内の上田市立博物館で開催されていた企画展「上田城下町・川の謎-矢出沢川と蛭沢川-」のおかげで、それまで知識がなかった上田盆地の成り立ちと地質分布について理解することができ、個人的に長年の疑問だった「矢出沢川の谷地形発達の謎」がようやく解けたようにも思いますので、最初にこれを図面でまとめてみます(あくまで私の独自の解釈ですが…)。

 

上田盆地の地質①
※国土地理院の標高図を加工したものです

現在の上田盆地の平野部には「上田泥流」と呼ばれる火山砕屑物の堆積した分厚い泥流層が広範囲にわたって見られますが、この泥流層が形成されるよりも以前の上田盆地は、上図のような千曲川の氾濫原と、神川などが生み出した扇状地によって構成されていたようです。

上田盆地の地質②

この扇状地を千曲川が浸食して出来た台地が、現在でも見られる染谷台地の原型になるのだそうです。つまり染谷台地の地質は上田泥流とは違うものなのですね。知りませんでした。

上田盆地の地質③

そして氾濫原には上流から大量の土砂が押し寄せて染谷台地を除く平野部が完全に埋め尽くされました。これが上田泥流と呼ばれるものです。原因は火山の山体崩壊によるものらしいですが、いつ頃、どこの山から来たものであるかは未だにはっきりとしていないそうです。

上田盆地の地質④

氾濫原を埋め尽くした泥流の上面は平坦ではなく、中央が高くて周辺部が低いカマボコ型のような状態になっていたようで、このため盆地の北端部、染谷台地との境界や太郎山山系の麓付近には低地が生じて、そこに次第に水が溜まることで湖が形成されていったとのこと。

上田盆地の地質⑤

上田泥流と染谷台地、太郎山山系とに挟まれた場所に湖があったというのは驚きですよね。

上田盆地の地質⑥

現在の上田市街地にあたる付近(赤枠で囲んだ場所)を少しだけ拡大して見てみましょう。

上田盆地の地質⑦

この湖は太郎山山系からの土砂の流入や湖底への堆積物などによって次第に規模を縮小し、消えていったようです。また、上田泥流についても千曲川の浸食によって削られ、河岸段丘が形成されることとなりました。これが上田城の南側にも見られる断崖になるわけですね。

上田盆地の地質⑧

このような過程を経て、現在の上田盆地北部は上図のような地質構成なっているそうです。氾濫原と染谷台地、氾濫原の上を覆った上田泥流とその低地部分に生じた湖の底の堆積層、そして太郎山山系から出た土砂による扇状地が複雑に組み合わさっており、決して上田泥流のみの単独構成ではないのだとか。泥流層の露頭部分が意外と少ないことに驚かされます。

上田盆地の地質⑨

これに現在の地形図を重ねてみましょう。中央下部にあるのが上田城です。こうして見ると上田城の城域のほとんどの部分が泥流層上に収まっていることが分かって興味深いですね。

上田盆地の地質⑩

さて、以上のことから私が長年抱いていた疑問である「なぜ上田城の北側付近で矢出沢川の谷地形が急速に発達したか」という謎(「真田氏時代の上田城考/その④」参照)が解けたように思います。上図で谷地形の始まる起点をよく見てみると、ちょうど旧湖底の堆積層と上田泥流との境界部分がそれにあたっており、「地質の変化」こそが最大の要因であったと考えられそうなのです(もちろん地質の性格の違いを分析しないと結論は出せませんが)。

上田盆地の地質⑪

もう一つ、染谷台地から出た矢出沢川の流路がしばらく迷走しているように見える原因も、こういった地形的な変化があった影響なのかもしれません。おそらくは湖が誕生した当初は矢出沢川もこの湖に直接注ぎ込んで湖の水の供給源となっていたものと思われます。しかし黄金沢などが太郎山から運び出す土砂が扇状地を発達させることで次第に北に向かう流路が妨げられるようになり、矢出沢川は迷走した挙句に上田泥流方面へと流路を変更することになったのではないでしょうか。そして最大の水の供給源を失った湖も消滅へ向かった…と。

上田盆地の地質⑫

さらに言わせてもらうなら、古代からの条里制の遺構が多く見られる秋和や常磐城、そして常田地域がかつての湖底であった堆積層の上に位置していることも偶然ではないでしょう。それだけ土壌が豊かだったという証しなのだと思います。上田盆地では最古の古墳であるとされる大蔵京古墳(方墳)が秋和地区に存在することもまたそれを表しているようですし。ところで、その大蔵京古墳のある付近(国道18号線バイパスが新幹線と交差するあたり)に見られる谷地形もまた、かつての湖から流れ出た河川が作り出したものなのでしょうか?

地質学方面の知識に疎い私にとって、今回知った上田盆地が形成されるまでの過程に関する情報の多くは全く予想もしていなかったような驚きや発見があり、目から鱗の落ちるような思いでした。まさか上田泥流の台地上にかつて湖が存在し、その湖への堆積物が後になって周辺の地形や人々の生活にまで影響を及ぼしていたというのですからね。脳内妄想だけでは導き出せない「真実」があるということを見せつけられて反省することしきりであります。

 

幻の河岸段丘巡り

前置きが長くなりましたが、それではそろそろ本題である上田城周辺巡りの話題に入ろうと思います。今回最大の目的としていたのは前回前々回で私が提起した「幻の河岸段丘」の痕跡を現地で実際に歩いて確認することでした。昔からよく知っている場所ではあっても、視点を変えて見てみると新しい発見があったりするというのは、なかなか楽しいものです。また、新しい妄想のきっかけも得られましたので、それについても簡単に触れてみますね。

幻の河岸段丘

先ほどの地質図を利用して、私の考える「幻の河岸段丘」を示してみました(赤い点線)。上田泥流の上面に、もう一段の小規模な河岸段丘があったのでは?という仮説になります。

巡った範囲
※国土地理院の淡色地図を加工したものです

今回巡った範囲。写真を撮った場所を番号で記入しています。少しゴチャゴチャとしていて見づらいため、掲載する写真ごとにそれぞれの場所を単独で見られるようにしておきます。

 

①

撮影場所①

:スタート地点は、段丘の西端付近と思われる場所から。ここには、標高図を見ても確認できるほどの明確な段差が存在しています。人の手が加えられているためか崖面自体の比高はやや小さく見えるものの、奥に見える家の高さと手前の田んぼのレベルを比較してみると、それなりの高低差があることが分かります。

②

撮影場所②:先ほどの場所から少しだけ東側に入ったところ。段差が一直線に続いていることが分かります。ここで見られる高低差は1m強といったところでしょうか。

③-1撮影場所③:上の写真で正面に見えている家の南西角付近。屋敷地として土地が均されているようですが、それでもこのような小規模な段差を確認することは出来ます。

③-2

:同じ場所から北側方向を見たところ。道が緩やかに下っていることが分かりますよね。

 

④

撮影場所④:高橋付近。先ほどの標高図によれば、段差は矢出沢川を越えてさらに東へと続いているはずです。位置的には奥に見える建物の向こう側あたりでしょうか。

⑤-1

撮影場所⑤:上で川越しに望んだ場所にやって来ました。ここは今回巡った中でも最大の驚きだったかもしれません。大きな段差が非常に明瞭に残されていたからです。

⑤-2

:すぐ向こう側が矢出沢川だからというのもあるかもしれませんが、この高低差はすごいですよね。2m近くはありそうです。なお、上田城の築城時に整備された蛭沢川の新河道はこの付近で矢出沢川と合流していたようです。痕跡らしきものは発見できませんでしたが。

⑤-3

:ご覧のように、段差はさらに東側へと一直線に続いています。この連続性を見る限り、河岸段丘であることはほぼ確実な気もします。断層という可能性も否定は出来ませんけど。

 

⑥

撮影場所⑥

:芳泉寺の北側あたり。先ほどから続く段差はここでも見ることができます。

⑦

撮影場所⑦:ただ、このあたりから次第に段差の存在が不明瞭になってきます。緩い傾斜が見られるので高低差があるのは確かなのだけど。この理由については前々回も述べたように「築城時に城内が城外よりも低いことを嫌い、堀の造成などで出た土砂を盛ることで土地の高低差を解消したのでは」と考察をしているのですが、本来あるはずの段差が見られないと、それはそれで不安な気分になるものです。

⑧

撮影場所⑧

:この付近ではさらに平坦になり、南北方向にほとんど高低差がありません。私の自説が正しいなら、築城時に最も重点的に土地の嵩上げが行われた、または最初期に嵩上げが行われた場所と考えることも出来そうです。おそらく徳川との対立後に城の正面が北から東に変更されたため、嵩上げも中途で打ち切られたと思われ、土地の平坦性にムラが見られるのはそれが原因ではないかと。ところで写真の細い水路は蛭沢川の名残りなのかな?これがかつての「惣構え」とは…。

⑨撮影場所⑨:西脇会館の南側。この周辺もかなり平坦で、蛭沢川の名残りと思わしき水路が東西方向に見られます。あくまでも仮定のお話ですが、土地の嵩上げが実際に行われたとすると、その完成度(平坦性)の違いを見るだけでも築城当時の城の正面方向への意識が窺えると思います。ほぼ平坦なこの付近はさしずめ城北側における最重要ポイント、いわば「大手」にあたる部分だったのかもしれません。

⑩-1

撮影場所⑩:もう少し東へ進むと、若干ながらも再び高低差が見られるようになります。この道も北から南へと少しずつ下っていますしね。なお、この先で右に入る道は周囲と比べても一段低くなっており、蛭沢川の河道跡ではないかと思われます。

⑩-2

:その道を入って振り返ったところ。路面が手前にグッと下がっているのが分かります。

 

⑪

撮影場所⑪

:上の道を東側へ抜けると、このあたりから南北方向の段差が見られるようになります。幻の河岸段丘の続きと思えなくもないですが、この付近は矢出沢川が上田泥流上へと流れ出て谷地形の始点になった場所とも考えられますので、そのどちらによるものかは判断できません。河岸段丘にしては少し北寄りすぎる気もするため、矢出沢川の谷地形の段差である可能性が高いようにも思いますが…。

⑫

撮影場所⑫:もう少し北側から南方向を見ています。道路が一直線に下っており、お城に近づけば近づくほど土地が周囲よりも低くなっていくことが分かります。上田城もよくよく見てみると「穴城」なんですよね~。そしてその最大の要因となっているものこそが私の言うところの「幻の河岸段丘」では?というわけなのです。

⑬

撮影場所⑬:北大手町の交差点に向かって道路が下っています。ここで見られる段差はとは違い河岸段丘のものではないでしょうか。柳澤病院裏、清明小学校西側へとやや湾曲しながらの連続性が感じられるからです。ただ、南北方向に矢出沢川のものと思われる段差が混じっているようにも見えますから、なんとも複雑です。

⑭-1

撮影場所⑭:柳澤病院裏。明らかな段差が見られます。病院建設時の土地造成によるものも当然あるでしょうが、この高低差が道路のカーブに沿って続いているところを見ると、どうやらもともとの地形的な影響が強く残っているようにも感じます。

⑭-2:道路はこの手前から奥に向かってカーブしているのですが、段差もそれに平行しているのが興味深いです。自然の地形に逆らわずに土手の上に道路が敷かれたようにも見えます。

⑭-3

:その先で道路は低い段へと下っています。ちょうどカーブの終わる付近で、前方の左側(清明小学校)にはまっすぐ伸びる土手状の段差がなお南側へと続いているのが見えます。

 

⑮

撮影場所⑮:上の写真の場所から坂を下って西側を見たところ。上田中央消防署の裏手にあたります。この道路のある場所は、かつて蛭沢川(旧蛭沢川)の流路であった場所と考えられ、土地自体も周囲よりかなり低くなっていることが分かります。

⑯

撮影場所⑯

:清明小学校横から北側を見ています。この付近は一貫して西側よりも東側の土地の方が高くなっており、この段差こそから辿ってきた幻の河岸段丘の続きでは?と思わせられるのです。写真の奥で道路がガクンと低くなっている場所がありますが、あれが上で見た蛭沢川の河道跡と考えられている部分になります。

⑰

撮影場所⑰

:上田市役所の北西角。よく見ないと気付かないレベルですが、第二中学校前から市役所前までは非常に緩やかな傾斜が続いています。その中でも最も分かりやすいのがこの小段差でしょうか。写真を撮り忘れましたが、道路を挟んで反対の北側には低地となっている場所があり、これはもしかして私が復元案に示した堀の跡では?なんて思ったりもして…。ちなみに写真奥の後姿が吉池さんです。

⑱

撮影場所⑱

:市役所の南側に移動しました。右手前は上田高校の北西角。正面の駐車場のあたりをじっくり観察してみると、非常に複雑な起伏があることに気付きます。意図的にこんな無意味な整地をするはずもないので、おそらくはもともとの地形の影響が残されたものなのでしょう。手前の上田高校の敷地と、奥のプレハブが置かれた場所との高さがほぼ同じレベルに見えるのは果たして偶然でしょうか?

⑲

撮影場所⑲

:上田高校の校舎が建っている敷地と、その西側のグラウンドの間には明確な段差があります。上田高校のグラウンド≒第二中学校の敷地≒上田城内平面の高さであり、逆に上田高校の校舎の建っている敷地≒東側の市街地と同レベルであることを考えると、ここに見られる校舎側とグラウンド側の高低差がほぼそのまま真田氏の築城当初の城内と城外の高さの違いに相当しているのかもしれません。

⑳

撮影場所⑳:上田高校の南西角。グラウンド平面よりさらに土地が低くなっているため、幻の河岸段丘方面が氾濫原でなくなって以降もこの南側の段丘面だけは継続して浸食されたものと考えられます(グラウンド南側にも小さな段丘があるので)。また、写真の段丘が北側に折れている箇所も本来ならもっと緩やかな曲面だったはずですが、屋敷地を整備する際に直角に近い形へと改められたのでしょうね。

 

幻の河岸段丘巡りは以上です。ほぼ前回のストリートビューを使っての地形観察の追確認のようになってしまいましたが、高低差の状態や周囲の環境などを実際に見たり体感するのはとても意味のあることだと思いますし、そのおかげでまた「築城当初の城の正面意識」なる奇妙な妄想を思い付いてしまう結果にもなりました(これについてはもう少しだけ頭の中で膨らませてみようかと思っています)。気になる場所や興味を抱いた場所があればとにかく歩き回って確かめてみる!これこそが私の基本姿勢であり、また楽しみでもありますので。

 

動物園の低地と玄三山

幻の河岸段丘を巡る途中で気になる場所がありましたので、以下に2つほどご紹介します。

A-1撮影場所A:上田城跡公園の児童遊園地内にある動物園です。ここにかなり規模の大きな低地が残されていたとは今まで知りませんでした。動物園なんて子供の頃に来ただけですからね。もともとは矢出沢川の浸食によって形成された谷地形であり、それが上田城築城の際に二の丸北側の水堀としても活用されたことになります。

A-2:ここより西側の堀跡はほとんど埋め立てられてしまっていますが、水路は今でも生きているようです。水の流れている平面が昔の堀底と同じレベルだと考えてよいのでしょうか?

A-3:動物園側から見上げたところ。底面からだと3~4mくらいの高さはあって、想像以上に深いので驚かされました。まさかこんな場所に上田城の水堀の遺構が残されていたとは!

 

 

B-1

撮影場所B

:ここは北大手町会館のある付近。江戸時代の絵図などに「玄三山」と書かれている場所です。ただ、どう見ても「山」と呼べるような地形ではありません。屋敷地だった頃の庭に築山でもあって、それの愛称だったのかな?などと漠然と思ったことはあるものの、いままで深く考察してみたことはありませんでした。

B-2:ただ、この説明板を見ている時、ふと「これも上田城の遺構の一つなのでは?」という妄想が頭に浮かんだのです。吉池さんによると「玄三」=「源三郎」のことであり、かつてここに真田信幸の屋敷が置かれていたのではないかという説もあるのだそうで、少なくとも真田氏時代には戦略的にもそれなりに重要視された場所であったように思えてきたのです。

玄三山の場所天正年間上田古図に見る「玄三山」の場所です。北、東、西の三方を水路に囲まれており、独立性はかなり高そうに感じます。特に東側面の短い水路は意図的に掘り込んで設けられた堀割のようにも見えますしね。この不自然な水路の存在については昔から気になってはいたものの、「物資搬入のための舟入か何かかな?」程度の想像で済ませてしまっていました。

しかし、もしこの水路が方形に囲まれた区画を防御するための水堀であったとすると、実は想像以上に本格的な構えを持つ屋敷がそこにあったのでは!?と妄想がさらに膨らみます。

玄三山の立地

玄三山の立地を地形面から見てみると、北側と西側を水路(おそらく旧矢出沢川の谷地形)に囲まれ、南西面は私の想像する幻の河岸段丘に接しています。これらの地形は防御に活用できますので、後は東側に堀割さえ設ければ簡単に防御力の高い屋敷地の出来上がりです。
「山」という呼称も、あるいは周囲を谷や低地に接する土地であったことが由来なのかも。

 

復元案(玄三山屋敷+)

というわけで、私の「真田氏時代の上田城復元案」にもこの玄三山屋敷(仮称)を追加してみました。上田城東側の外郭を守るように屋敷地が等間隔で3つも並んでいる姿というのはなんとも壮観ですよね。ただ、この守備体系を生かすには限られた兵力を分散させる必要もあるわけで、非常に高度な戦術が必要とされたことでしょう。お得意の山岳ゲリラ戦で鍛え上げた細やかな用兵術を駆使できる真田氏だからこその縄張りと言えるのかもしれません。

上田城の北東方向は以前から少し守りが薄いような気もしていましたので、やや小規模とはいえ、ある程度の防御力を備えた屋敷地があったのだとすればとても心強く感じられます。

 

B-3:敷地の東側には南北方向の細い水路が見られます。絵図に見られる堀割の名残りかな?

 

B-4

:北大手町会館北側の水路。おそらく旧矢出沢川の谷跡であり、その後は蛭沢川の新河道として利用され、真田氏時代には惣構えの役割も果たした由緒のある水路です。今でも水が流れているのを見るとなぜか感動してしまいますね。上田城の隠れた聖地かもしれません。

この玄三山の屋敷地については、江戸時代初期に描かれたと思われる絵図にはその特徴的な姿が見られるのですが(「上田城構之図」。こちらで見られます)、それ以降の時代のものではほとんど存在感を失ってしまいます。仙石氏時代には必要がなくなって、周囲の屋敷地と同等の扱いになっていったのでしょう。名前だけはしっかり受け継がれたようですが…。

 

 

推定ラインを微修正

さて、上でもご紹介した「上田城構之図」を眺めていたところ、とある点に着目してしまいました。それは中屋敷(清明小学校)の北西角と二の丸北側の水堀(先ほどの動物園)との間を結んでいる水路の形。緩やかな弧を描いていますよね?(上のリンクからご覧下さい)
これって、そのまま柳澤病院裏で見たカーブ()と一致しているように思えるんですよ。もしこの水路が段丘との境界部に沿う形で設けられていたと仮定するなら、段丘のラインは私が想定したよりも南側、水堀のすぐ北側あたりへと続いていた可能性が高そうなのです。


ストリートビューの場所:そこで、前回と同じようにGoogleのストリートビューを利用して二の丸堀により近い場所をもう一度巡ってみたところ、それらしき高低差を発見しました。上の画面は西側を向いている状態ですが、右側(北側)に見える土地が明らかに高くなっているのです。の付近から段丘のラインが少しずつ南寄りに変化し、この画像のあたりを通って柳澤病院裏へと連続していたとも考えられそうです。

 

微修正案これに準じて、幻の河岸段丘の推定ラインにも微修正を加えてみました(青い点線部分)。わざわざ修正をするほどの違いではないと思われるかもしれませんが、この微妙なラインのズレが別の考察にも大きな影響を及ぼします。それはで見られた高低差についてで、微修正後のラインが正しければ、これらの段差が生まれた原因は矢出沢川の浸食によるものであることがほぼ確実になるからです。そして、これだけ大きな地形変化をもたらしている以上、上田城が築城される以前の矢出沢川の流路が「玄三山北側→玄三山西側→二の丸堀」という河道ルートであったとする仮説の有力性がさらに増すものと考えられます。最初からこのことに気が付けていれば良かったのですが、ずいぶんと遠回りをしてしまいました…。

 

 

今回の幻の河岸段丘巡り、それ自体では特に目新しい情報などは得られなかったのですが、動物園の谷地形や玄三山など、意外な場所で思いがけない発見や驚きがあったのがなかなか面白かったですね。やはり現地を実際に歩くというのは、こういった予測不可能な出会いがあるから楽しいのです。しかも、それらが次の新しい妄想のきっかけともなったりして…。

長時間を一緒に巡って頂き、また貴重な資料や情報を提供して下さった吉池さんにも改めてお礼を申し上げます。時間があったらまたじっくりあちこち歩き回ってみたいものですね。

 

次回:街道と上田城→こちら

城郭研究

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