田中光学 / TANAR H.C. f:1.5 5cm
個性的なレンズ群
田中光学は1953年~1959年の極めて短い期間、ライカタイプのレンジファインダーカメラとその交換レンズ群を生産したことで知られるメーカーです。カメラはタナック(Tanack)、レンズはタナー(TANAR)というブランドでした。もともとはシネレンズを製造していた光学メーカーだったようですが、その頃の製品についての情報はほとんどなく、おそらくは下請け生産をメインとしていた会社がオリジナルブランドを立ち上げ、それと同時にカメラの製造にも乗り出すという形で世に出たのではないかと思われます。シネレンズを生産するほどの会社なので技術力は相当に高かったらしく、小規模メーカーとは思えないほどレンズのラインナップは充実していました。今回のタナー5cmf1.5はその中でも最大口径比を誇った標準レンズになります(幻の5cmf1.2というレンズがあるとかないとか…)。
所有するタナーレンズを並べてみました。この他に35mm f3.5、50mm(5cm) f2.8/f3.5、13.5cmf3.5というレンズがあり、試作のみで販売されなかったとされる幻の5cmf1.2/8cmf2、13.5cmf2.8などの存在も知られています。
特にf1.5~f2の標準レンズ4本は全てにゾナータイプのレンズ構成が採用されており(f2.8/f3.5はテッサータイプ)、田中光学独自のこだわりだったのかもしれません。ちなみに35mmf3.5はヘラータイプ(前回のソリゴールを参照)で、35mmf2.8はダブルガウスタイプ、10cmf3.5と13.5cmf3.5はテレゾナータイプでした。
これらレンズ群への評価は当時としても決して悪くはなかったようですが、肝心のカメラの出来がいま一つだったようで、最後まで消費者の信用を得られずに終わってしまったとか。やはりレンズ製造と精密機器であるカメラの製造とでは、設計はもちろん各種部品の素材や加工精度、組み立て技術など、求められる要素が大きく異なっていたために苦戦を強いられたのでしょう。戦後にカメラ製造を試みたレンズメーカーはいくつかありますが、成功例は日本光学(ニコン)くらいで、ドイツのシュタインハイル社はカスカⅠ・Ⅱ型のみで撤退をしましたし、ズノー光学(帝国光学)も一眼レフカメラの製造に大苦戦し倒産しています。いずれのメーカーの製品も既存のカメラにはない斬新な機構やデザインが採用されていて、アイデアや先見性には優れていたものの、いかんせん技術面が伴っていなかったようです。
大口径ゾナータイプ
開放値がf1.5という大口径でありながら、ゾナータイプ(3群7枚)を採用しているため外観は非常にコンパクトです。フィルター径は40.5mmで、絞りはf1.5~f16まで不等間隔のクリック付き、羽根は15枚、ライカLマウント。距離計には連動しませんが、最短2フィート(約60cm)までヘリコイドを繰り出して撮影することが可能で、これは同じLマウントのニッコールレンズに影響を受けたものと思われます。ただ、距離計連動を外れる3.5フィートから先は距離数字が赤色に変わることで区別がされてはいるものの、ニッコールレンズのような境界点を示すクリックはありません。ごく初期の製品を除くと、田中光学製の標準レンズには全てのタイプにこの近接用の繰り出し機能が備わっています。
1957年に発売のタナックSDのために用意された標準レンズですが、レンズ単体での販売があったのかどうかは分かりません。当時の広告(こちらを参照しました)を見る限りでは、カメラとセットでの販売が基本だったようですね。タナックSDの生産台数は非常に少なく500台前後しか作られなかったとも言われており、このレンズも「No.1500x~1549x」の製造番号帯の個体しか見たことがないため、カメラとほぼ同数の500本程の生産であったと思われます。製造番号の頭の「15」はこのレンズの開放値から来ているのでしょうが、その後ろが3桁しかなく、また20000番台以降は既に別のレンズに使用されていたことからも、このレンズの大量生産は最初からあまり考えられていなかったのかもしれません。
希少な大口径レンズのためか、市場での中古価格はかなり高額(美品だと20万円以上)になっていますが、この個体は光学的には素晴らしい状態だったものの、写真のように外観に使用感が多めだったことが嫌われたのか、とても安価に入手できました(相場の1/3ほど)。コレクターさん達は一点の傷もない美品を求めるのでしょうけど、私は実用に使うのが目的なので光学系がきれいで動作に問題がなければ外観は特に気にしません。むしろ、それだけ前の所有者さんに愛用されていたことが分かって、描写への信頼感も増すというものです。
最短撮影距離(2フィート)まで鏡胴を繰り出したところです。距離計カメラでは近接撮影が目測になってしまうものの、ミラーレスカメラなら被写体に気軽に寄ることが出来るのでとても便利。大口径ゾナータイプレンズの近接描写にはたまらない魅力がありますからね。
後期のタナーレンズはデザインがコロコロと変わりますが、35mmf2.8とf3.5(不思議なことに35mmだけは「cm」ではなく「mm」表記です)のデザインはピントリングなどの意匠がこのレンズとよく似ています。生産された時期が近かったのでしょうか?鏡胴のつくりは全体的にしっかりしていて、各部の操作感も滑らかです。
描写テスト
1:まずは遠景を絞り開放とf8で
絞り開放。周辺減光が盛大です。画面中心部はそれなりに解像はするものの、中心から少しでも外れると結像が甘くなります。まあ、大口径ゾナータイプレンズの開放・無限遠描写はどれでもだいたい似たような印象を受けるものですが、タナーはとりわけ甘い気がします。
f8まで絞ると周辺減光は気にならなくなり、画面中心部の解像度も問題のないレベルに。ただし、周辺部にはまだ若干の甘さが残ります。遠景を均一に写すような目的には向かないレンズでしょうね。色調は黄味が強めで、全体的にくすんだような感じの描写となります。
2:次は近距離の被写体にピントを合わせた時の比較です
絞り開放。合焦部の解像感は遠景よりも良く、淡いフレアによって繊細な印象を受けます。これくらい近距離だと後ボケはかなりグルグルしていますが、もう少しだけ遠くにピントを合わせると一定の距離を境にこのグルグルは消えて、ポワ~ンとしたボケへと変化します。
絞りf5.6。後ボケにまだ少しクセが見られるものの、全体的にはバランスの良い写り。黄味が強いためか露出が不足すると色味が濁るので、ややオーバー目に撮るように心掛けています。特に開放では露出を多めにするとフワッと軽快な写りになるのが気持ちいいです。
3:もう少し先の中距離にピントを合わせた時が独特です
絞り開放。5mほど先にピントを合わせました。半逆光に近い状況というのも影響しているかもしれませんが、後ボケがとにかく個性的!こんなボケはあまり見たことがありません。
絞りf8。それでいて、絞ればごく普通に写ってしまうのだからなんとも不思議…。まるで狐につままれたみたいです(このカットは上の写真よりピントを少し奥に置いています)。
タナーで撮ってみる/カメラ:SONYα7
※画像右下のルーペマークをクリックすると、合焦部分の拡大画像が表示されます。
※撮影時の設定、データの処理等についてはこちらをご参照下さい。
開放での近接描写。大きく崩れていくボケが魅力的
「解像力ってそんなに重要?」とレンズに問い掛けられている気分…
周辺部の甘々な写りがたまりません!
不思議な立体感がありますよね
フレアを纏った前ボケがとても綺麗です
柔らかくて優美なフレアだなぁ…
かなりのクセ玉だと思います。開放付近での解像度は決して高くありませんし、被写体との距離によっては後ボケも暴れ気味、露出が不足すると色味が濁って汚く見えたりもします。性格や表情を次々に変化させていくため、なかなか特徴を捉えるのは難しかったのですが、使い続けるうちにようやく「開放・中距離・半逆光」というスイートスポットがあることを発見しました。逆光には意外と強いレンズなので、光量の多い場面でも気軽に開放にできるのはありがたいです。まだまだ隠された第2、第3の素顔が見つかる可能性だってあるわけで、探求のしがいがある「じゃじゃ馬さん」と言えるでしょう。奥の深いレンズですよね。
織物提供:小岩井紬工房