不思議な地形
前回からの続きです。
思考の堂々巡りから抜け出せない私は、とにかくいろいろな絵図、地形図、航空写真などを何度も何度も眺め返して、その突破口を見つけ出そうとしていました。そしてある日、ふと思ったのです。「これは、いったい何?」と。
広堀と捨堀の間に築かれた長細い堤から突出した不思議な地形。以前から、これはいったい何のためにあるのだろう、と考えたことは何度かありました。この堤を敵に渡って来られるのは困りものですから、それを防ぐために独特な形状の虎口(江戸城の外桜田門のような)を作ろうとしていた名残りなのでは?などと、いろいろ目的を考えてはみたものの、あまり人工的に加工された形跡も見られませんし、南側を掘り込んだところで工事が中断されて、そのままになってしまっただけの自然地形なのかも、と自分の中では結論付けていました。
しかし一度その不思議な地形が気になり出すと、そのことが頭から離れません。江戸時代に描かれた絵図の当該箇所を手当たり次第に調べてみました(この部分が省略されている絵図も多いのですが…)。その中で、ちょっと気になる絵図があったのです。それは享保年間に描かれたとされる2種類の「上田城下町絵図」。描写方法は若干異なるものの、内容自体はほとんど同じものなので、おそらくどちらかがどちらかの写しだと思われるのですが、この2つの絵図の当該箇所を拡大して見て下さい(こちらとこちらで確認できます)。
当該箇所を上記の絵図風に加工してみました。どうです?何かが見えて来ませんか?
そうです。赤い点線のような河道のラインが見えて来るのです。つまり、この付近には前回論じていた谷地形の他にも、もう一本別の河道、谷筋が存在していたと思われるんですね。捨堀を南下して千曲川へ下る排水用の谷筋(絵図では「水ハキ」などと書かれている)は、矢出沢川の旧河道の一つ、程度に思っていたのですが、どうやらそれは勘違いのようで…。
例えば、この谷筋は上図のように矢出沢川の分流の一つと考えることも出来ます。もしそうだとするなら、広堀や捨堀が南側に広くなっている理由も説明できそうですよね。しかし、私にはなぜか、これとは全く違う別の可能性が存在するような気がしてなりませんでした。
この矢出沢川の南にもう一本あったと思われる谷筋は、いったいどこからやって来たのか?
そこからまた、絵図やら地形図やら航空写真やらを取っ替え引っ替えしつつの、にらめっこが始まりました。中でも意外なほどに参考となり、また興味深かったのがこちらの上田城の復元模型をさまざまな角度から眺めることが出来るサイト。ぐるぐる、ぐるぐる、あらゆる角度から上田城を眺め回します。やはり、こういう時には立体物を見るのが一番ですよね。
さて、その結果として浮かび上がってきた流路筋は、以下のような意外なものでした。
そう、私が見出した谷筋は、ずっと東側にある蛭沢川の流路と結び付いてしまったのです。この結果には自分自身でも驚かされました。なぜなら、それはつまり「矢出沢川と蛭沢川はそもそも合流していなかった」ということを意味しており、通説の否定にもなるからです。
これが、私の考える上田城築城以前の周辺地形の様子です。矢出沢川と蛭沢川は交わることなく並行して西へと流れ、別々の場所で千曲川に注いでいました。2本の川が交わらないということは、「合流点から谷地形が形成された」という考え方も捨てなくてはなりません。
北側の谷筋はあくまでも矢出沢川単独のものであって、「川の合流」という谷地形が始まるきっかけは存在しなかった。そうなると、矢出沢川の谷地形は「特定の地点から突然発生的に生まれたのではなく、そのずっと手前から既に形成が始まっており、西に向かうにつれて少しずつ拡大していった」と考えた方が自然に思われます(なぜ上田城付近で突然発生したかのように見えるかについては、次々回で)。
奇しくも、昨年に行われた上田城跡公園内にあったプール跡(上図の赤丸付近)の発掘調査で、仙石氏の復興後は土塁となっていた場所から水路跡と思われる谷地形が発見されたそうです。正確な場所や谷の向きなどは分かりませんが、「我が意を得たり!」と膝を叩きたくなりましたね(ちなみにこちらの動画で発掘調査についての説明を見ることができます)。
奥に見える、新しく整備された北観光駐車場付近から、谷状の地形が発見されたそうです。
ところで以前から気になっているのですが、中央のテニスコートの客席になっている場所、これって残存土塁の一部なんでしょうか?この部分についての言及を見たことがなくて…。
二の丸にある招魂社の境内を西から東に向かって見ています。私の考えが正しいなら、この写真の中央を蛭沢川がまっすぐ(奥から手前に)流れていたことになります。
いかがでしょう?上田城が築城される以前、そこには矢出沢川と蛭沢川の2本の谷筋が独立して存在したのではないか、という私の仮説。
以降、この仮説を前提として真田氏時代の上田城の復元案を提示してみたいと思います。