ここでちょっと一息。
上田城の復元案のご紹介は次回から始めますが、ここで余談をいくつか。
迷走を極めた蛭沢川!?
上田城がある台地の南端部の周辺を観察していると、いたるところに台地上から千曲川へと川が落ち込んでいたと思われる河道の痕跡らしき谷状の地形が見られます。
その場所や規模から察するに、どうやらこれらは全て蛭沢川水系のものらしいんですね。
台地を構成する上田泥流層が水を通しにくい地質のためか、はたまた川としての水量が微弱すぎたのが原因かはよく分かりませんが、蛭沢川の流路は幾多の変遷をたどったようです。上田城が築かれた頃の「天正年間上田古図」には、流域に数多くの沼も描かれていますし。
「ア」は現在の「車坂」と呼ばれる場所ですね。この北側の一帯はかつて沼地になっていたらしく、それが後の惣構え(真田氏時代)、三の丸掘(江戸時代以降)となったようです。
「イ」は上田高校の南側にある小さな谷で、現在もこの部分だけ崖が途切れています。
「ウ」は現在では消滅していますが、上田高校と第二中学校の敷地の中間くらいに存在した谷で、どの絵図にも必ず描かれています。第二中学校の校舎建て替えにあたって発掘調査が行われたようですが、何か新発見はあったのでしょうか?
「エ」も現在では確認できません。小泉曲輪(東側)の、今は体育館南面のテニスコートになっている付近に存在していたようです。規模はさほど大きくなかったのか、描かれている絵図も少ないため詳細は分かりません。私の使用している図は「上田城中核部実測復元図」を参考にさせてもらいました。絵図ではもっと丸みのある形状に描かれていたりもします。
「オ」は私の仮説の通りであれば、最終的な蛭沢川の流路となります。
このように小規模な谷が東西にいくつも並んでいるのですが、ただ、上の図にはその谷地形がしばらく見られない空白地帯も存在します。そう、それは上田城のある部分です。
私は、かつてはそこにも蛭沢川水系による谷が存在していたのではないかと考えています。
例えば上図の「カ」~「ク」のあたりなどは、その可能性が高いように思えます。
本丸の堀の南端「カ」は、なぜか崖際を切り落とした後で、再び塞ぐという不思議な造成をしています(西側の「ク」はそもそも完全に塞がれていたのかも分かりません)。これは、二の丸の堀の南端部分(上図の緑色の場所)の崖際を掘り残す造成とは明らかに違います。
また「キ」の部分は、尼ヶ淵の崖の中でそこだけが、上から下まで石垣で覆われています。
まず「カ」から見てみましょう。
続いて「キ」の部分。
最後は「ク」の部分。
非常に興味深いのは、「カ」、「キ」、「ク」の3か所全てに、真田氏時代のものと思われる石垣が見られる点です。築城当初から何らかの手を入れる必要性がある地形だったことは確かでしょう。それが、もしかすると蛭沢川水系由来の谷地形だったのでは?というお話。
これはあくまで私の妄想ですが、上田城が築城された場所には、もともと蛭沢川の迷走路の跡が大小の谷筋として存在しており、その谷地形を上手く利用して堀などが造られたのではないでしょうか。北側の広大な水堀ほどではないにしろ、です。
妄想ついでに言わせてもらいますと、私は「キ」の場所は、真田氏時代にはもっと奥の方へ切れ込んでいて、非常用か何かの出入口として使われていたのではないかと考えています。そして、その「キ」から少しだけ内側に入った場所にあるのが、かの有名な「真田井戸」。もともとは「昔、このあたりに城外へ通じる出入口が…」という内容だった伝承が転じて、後の「抜け穴伝説」になったのでは?なんて。う~ん、夢のない話だなぁ。
薄幸の西櫓
最近、ようやく内部が公開されるようになりましたが、上田城の三基の現存櫓の中でも最も影の薄い存在がこの西櫓。でも本当は明治以降に城内の建築物で唯一、移築も破壊もされず建てられた当時の姿を留めた貴重な櫓なんですよね(その「取り残された感」がまた…)。
個人的には、この櫓の「黙して語らず」といった存在感がとても好きです。
ところで、上田城の三基の現存櫓は現在「県宝(県の重要文化財)」に指定されています。北櫓と南櫓は、その歴史的経緯からある程度納得も出来るのですが、この西櫓については、なぜ国の重要文化財に指定されないのか不思議でなりません。17世紀の前半に建てられた城郭建築で、ほぼ建てられた当時の姿のまま完存。それでも文化財指定は県の重要文化財。同時期に建てられた他の城の建造物と比べると評価がちょっと低すぎはしませんか?
あるいは松江城の天守閣の例と同様、建てられた時代を確実に証明できる物証が足りない、とかなのでしょうか。もしも北櫓と南櫓の保存経緯の印象に足をひっぱられていたりするのなら、それはそれで気の毒。とにかく、いろいろな意味で地味で目立たない西櫓なのです。
その西櫓から現在の尼ヶ淵を望みます。かつてはこの崖の足下をえぐり込むように、千曲川の分流が流れていました。今の景観からはなかなか想像も出来ませんね。ここからの景色を眺めるたびに思うのですが、崖下に沿ってある歩道部分を青色に着色してもらえたらなぁ、と。そうすれば、かつての尼ヶ淵の様子を少しだけでも体感できそうなのに。視覚的な演出というのは、単純なものではあっても効果は抜群なんですけどね。まあ、信州人は基本的に頭が固いので、「正確な流路が判らないことには…」なんてことを言い出しそうだけれど。
上田城、要の堤
城の西端部、上田城の広大な水堀を生み出した最大の立役者が、この堤です。
この堤の上の道は私の高校時代の通学路でしたので、とても見慣れた光景です。でも、こここそが上田城築城における最大の要となった場所であることは間違いありません。長さこそ短いですが、非常に頑丈な造りなので簡単に決壊はしないでしょうし、敵が崩そうとしてもそう易々とは崩せません。道がカーブしている上に建物や木があったりして写真では上手く伝わらないかもしれませんので、Googleのストリートビューを使ってこの堤を渡って頂いた方が一目瞭然かもしれませんね。まあ、そうと説明されなければ全く気付かずに通り過ぎてしまうような場所なのでしょうけれど。
というわけで、今回は余談をいくつか書いてみました。次回、いよいよ築城開始です!