復元余話
水系の<謎>
前回ご紹介した「真田氏時代の上田城復元案」についての詳しい解説をする前に、少しだけ触れておきたい<謎>があります。それは城の周辺における「水系の変遷」についてです。
もともと現在の上田城付近を流れていた矢出沢川と蛭沢川は、築城の際に流路が改められ、それぞれ城の北側に新しく用意された別々の河道へと移されました。これについてはその①でも説明しています。そこでは、まだ開削をして間もない頃の矢出沢川の河床は掘り下げが不十分で、それより低い場所を流れていた蛭沢川の水を合流させることが出来ず、結果的に2本の河道が城の北側を並行する形になったのではないか、と書きました(下図の通り)。
江戸時代に入り、矢出沢川の河床が下がったことで、ようやく蛭沢川を接続できたのだと。
ところが、です。
この説明と完全に矛盾する絵図が存在していまして、しかもそれが上田城の築かれた直後に周辺地域の水系の様子を記録したものと思われる、あの「天正年間上田古図」なんですね。
ご覧の通り、上田古図では既に矢出沢川と蛭沢川水系とが接続した状態で描かれています。それも2ヶ所で。これはいったいどういうことなのでしょうか?
考えられる可能性としては、
- そもそも河床の高さには問題がなかった。矢出沢川と蛭沢川を合流させつつも、北側の守りを強化するために、城と矢出沢川の間にもう一本の河道が開かれた。
- 河床の高さが「矢出沢川>蛭沢川」だったという説は正しい。川が接続された理由は、水量の乏しい蛭沢川水系に矢出沢川からの水を引き込むのが目的だった。
- 絵図を描いた人物に勘違いがあり、当初の予定であった矢出沢川と蛭沢川との接続をそのまま記入してしまった。あるいは、後世に写しを描いた人物の誤解釈。
などがあるでしょう。
また、この上田古図に描かれた水系にはもう一つ謎な点があり、城と矢出沢川の間を流れていた川は蛭沢川だったとされているのに、その起点となるべき東端部分が接続されていないのです(下図の点線丸の場所。まあ、城の堀を経由して一応「接続」はしていますが…)。
この上田古図に描かれた内容が本当に正しいのかどうかについては、知る術もありません。
ただ、水系の描写に重点が置かれた絵図のように見えるので、さほど大きな誤りがあるとも思えないんですよね。そうでないと、この絵図自体の存在意義が失われてしまいますから。
さて、上に挙げたのは築城からまだ間もない頃の様子ですが、それからしばらく後の状況を知るための貴重な手掛かりとなるのが、前回もご紹介した「元和年間上田城図」です。
この絵図の上辺に描かれているのは蛭沢川です。矢出沢川は図外にあり、しかも上田古図に見られた接続部分もなく(点線丸のあたり?)、独立した一つの川として扱われています。
この元和年間上田城図の本来の目的は、中央に見える屋敷地の広さを詳細に記録することにあったようで、模写では省いていますが、敷地の縦横の幅から面積までが数字で細かく記入されています。ですから上田古図とは逆に、主目的ではない周辺河川の描写が簡略化されていることは理解できるのですが、矢出沢川の存在が全く描かれていないことが不思議です。
これとほぼ同内容の別の「元和年間上田城図」(『定本 信州上田城』収録)には、上辺の川の横に「昔ノ惣構」との書き込みがあるので、もしかして上辺の川は矢出沢川なのか?と疑ってもみましたが、同図では川の北側に「紺屋町」が書かれていることや、江戸時代初期の絵図を見ると、この蛭沢川を境に南北で武士と町人の屋敷地が分かれていたようなので、真田氏時代には矢出沢川ではなく蛭沢川が「惣構え」と認識されていたのかもしれません。
つまり築城当時の蛭沢川には城の内外を隔てるという重要な役割が与えられていたものの、江戸時代以降になると屋敷地の拡大等によってその概念は次第に失われていき、最終的には川自体が消滅してしまった、ということになるのでしょうか。
この絵図が描かれたのは真田信之の藩政時代。昌幸時代の上田城の記憶がまだ鮮明に残っていた頃のはずですから、「昔ノ惣構」の記述にも間違いはないと思われます。そうなると、ここに矢出沢川が描かれていない理由も「城外の扱いだから」ということで納得できます。それにしても、いままで蛭沢川を「惣構え」とは認識したことがなかったので新鮮ですね。
ところで、この「元和年間上田城図」には、もう一つ注目すべきポイントがあります。
それは上の赤丸の部分。これこそが、最大の謎なのです。「昔ノ惣カマエ」と書かれたこの場所は、「天正年間上田古図」では蛭沢川分流の細長い「沼」として描かれていたものが、同じ真田氏時代でも関ヶ原後に破却された頃には表記通り「惣構え」として整備され、後に仙石氏が復興した上田城では「三の丸堀」ともなる重要な水路の北端にあたるわけですが、この部分が北へまっすぐに伸びて蛭沢川とそのまま接続して描かれている絵図というのは、この「元和年間上田城図」の他には見当たらないのです。
上田古図の「沼」は北側が蛭沢川の旧河道とT字状に交わって終わりですし、仙石氏の復興以降の絵図を見ても三の丸堀は北端が西側に折れていて、それより北には続いていません。それではここに描かれた水路はいったい何なのでしょう。描き手の間違い?極度の簡略化?
いえいえ、私はこの水路は実際に存在したと考えています。
「元和年間上田城図」にある水路を江戸時代中期頃の上田城図に描くと、中央の青い点線のようになります。蛭沢川と交わる場所にある橋との位置関係も上の絵図と同じですよね?
この点線の付近は江戸時代においても「獄屋」が置かれたり、武士と町人の屋敷地の境界になったりと、居住にはあまり適さない土地だったらしく、その原因を水路跡であったことに求めれば納得が出来るようにも思えます。そもそも屋敷地の境界になっていること自体が、かつてそこに「惣構え」が存在していたことを示唆するかのようですし…。
ちなみに図の上部にある赤い点線は矢出沢川の旧河道で、谷筋は完全に埋められてしまったものの、東西方向の一部は蛭沢川の河道として再利用されたのではないかと私は考えます。
さて、上図に示した矢出沢川、矢出沢川旧河道、蛭沢川、そして「昔ノ惣カマエ」の関係を見ていると、とある仮説が浮かんできます。
もしかしてこれは築城時の「放水路」の名残りなのではないか?という。
前回の冒頭で「築城の際に谷跡の造成と新河道の開削が同時に行われたとすると、川の水はいったいどこへ流していたのか」という疑問点に触れました。矢出沢川の水量を考えれば、谷底に流したままでの造成作業も不可能ではなかったと思われますが、それでも工事の過程では水を止めて行う作業もあったでしょうし、悪天候時には増水の危険性もありますから、川の水を迂回させて流すための水路の存在は不可欠だったはずです。そしてその「放水路」として使用された経路こそが、上図のようなものだったのでは?というのが私の仮説です。
上田城と矢出沢川の新河道の完成により、放水路は一度はその役目を終えますが(上田古図に描かれた状態)、真田氏が城の整備を進める上でこの水路跡を「惣構え」として再利用し(元和年間上田城図の状態)、最終的には仙石氏が「三の丸堀」を整備する際に北端部分は不要とされて埋め立てられた、…のだとすれば、絵図上の相違点も説明できそうですよね。
それでは、もう一度「天正年間上田古図」を見てみましょう。
私の仮説を前提に見てみると、この絵図の描写にも少し違う解釈が出来るかもしれません。
まず青丸で示した部分。蛭沢川と接続していない点は依然として謎ですが、ここに少しだけ南側に向かって伸びる水路が描かれています。この上田古図が描かれた頃には、谷跡を利用した水堀も矢出沢川の新河道も既に完成しており、放水路の役割は終わっていたはずです。この青丸部分に描かれているのは、その役目を終えた放水路の名残りなのかもしれません。後世の絵図ではこれに該当するような水路が見られないため、余計にそんな気がしますね。
次に赤丸で示した「沼」です。上田古図を見ると、蛭沢川水系の周辺にはいくつもの沼地が描かれており、これもその中の一つだと思っていました。しかし、もしこの絵図が描かれる以前に放水路として利用されていた過去があるのだとすれば、この沼は自然のものではなく人口的に出来た、いや、出来てしまったものなのかもしれません。谷地形が見られるため、もともと川か川跡が存在していた場所だと思われるのですが、そこが放水路として使われて河道の容量を上回る水が流された結果、周辺が沼地化してしまった可能性も考えられます。
最後に緑丸の部分。こちらも「沼」と書かれています。ここまでの考察をまとめると、文頭で提起した矢出沢川と蛭沢川の河床の高さの問題に対する私の答えは、「2」となります。
つまり、通説のように河床の高さは「矢出沢川>蛭沢川」で正しく、接続された理由も水を矢出沢川から蛭沢川水系へと引き込むためだった、という意見です。ただし、緑丸で示した「沼」の存在からもうかがえるように、その高低差は僅かなものだったのかもしれません。落差が大きければ川の間に沼など生じないはずですし。それから、水位もかなり高かったと思われます。矢出沢川の新河道の河床がまだ浅かったことも理由の一つですが、どちらかというと、蛭沢川水系や上田城の水堀部分をギリギリまで水で満たすことで、城周辺の守りを固める意図があったのではないでしょうか。左上の「柳島」の付近が中洲のように描かれているのも、抽象的な表現ではなく、実際に「島」と呼べるような状態だったからでしょう。
思い出して頂きたいのは、この「天正年間上田古図」に描かれている状況は、築城開始から間もない頃の様子だということ。当然、城もまだ完全には出来上がっていない段階であったと思われます。そんな未完成な状態の城の守備力を補うため、周辺の水系までも総動員していた頃の姿が、このような絵図として残されているのかもしれません。矢出沢川や蛭沢川を滞留させ、水系全域の水位を上げるこの応急手法は、効率的な城の守備力強化になる反面、あちこちの低地に沼や湿地帯を生じさせたり、川の増水など急な水位変動への対処が難しいというリスクも抱えますから、城が完成するまでの一時的な措置であったかと思われます。
「天正年間上田古図」の特徴は、水系の様子が非常に誇張されているように見える点です。たしかに誇張には違いないでしょう。でも、この絵図が描かれた当時は本当にこんな感じで周辺の水系全域が水で満ち満ちていたのかもしれません。また、そんな様子を実感を込めて記録したからこそ、こんなにも豊かな水系図になったのでは…などと空想が広がりますね。
上田城が完成すると、この状況は解消されたと思われます。もう水系タプタプ状態の助けを借りずとも、城郭本来の守りで敵を迎え撃てる準備が整ったからです。矢出沢川と蛭沢川の接続も不要となるので、これを断ちます。そのままにしておくと逆に城下の水害の原因にもなりますからね。こうして蛭沢川は矢出沢川への依存から独立し、真田氏時代の「惣構え」という大役を受け持つことになったのだと思われます。…矢出沢川の河床が下がるまでは。
写真は柳町。橋の下を流れているのが蛭沢川で、この下流(写真の反対側)30mほど先で矢出沢川と合流しています。深さはそれなりにあるものの、幅は合流直前でも非常に狭く、いかにも人工的に開かれた「水路」という印象。川沿いに蔵が建ち並ぶ光景が見事ですね。
最近では、この周辺もすっかり観光名所として定着したように感じます。城下町の雰囲気が残るとても風情のある町並みですから、ドラマや映画の撮影などに使われることも多くて、上の写真の場所は映画『犬神家の一族』(1976年版/2006年版)にも登場します。
これは矢出沢川を下流側に見ています。奥に見える橋の50mほど先が蛭沢川との合流点。ここから河道は一直線に西へと向かい、高橋付近で直角に折れて南下、千曲川に注ぎます。
流路が変えられる以前の矢出沢川は、この手前の黄金沢との合流点から南西(画面左手)に向かって流れていたようで、そこから少しずつ谷地形を形成していったものと思われます。
高橋。上田城の北側を一直線に西に向かって流れてきた矢出沢川は、ここで突如として直角に折れています。この川が人工的に開かれたものであることを示す象徴的な場所でしょう。
ちなみにこの場所も映像作品のロケ地として何度も使われたことがあり、有名なところでは映画『たそがれ清兵衛』の河原の決闘シーンがここで撮影されています。映画『羊のうた』でも見ましたし、最近では映画『るろうに剣心』も撮影されたようですね。私の高校時代の通学路だったので、毎日ここを通るたびに「絵になる景色だな~」と思っていたものです。
高橋の少し上流。この写真でも分かるように、矢出沢川の両岸にはところどころで一段高くなっている場所が見られます。おそらく開削された当時の河床かと思われるのですが、この上流には更に高い部分もありますので、当初は想像以上に浅い川だったのかもしれません。
水系の話は以上です。とりとめもなく長々と書いてしまい申し訳ありません。全て私の妄想ですが、上田城関連の話題でもこういった部分に触れられることが少ないもので、つい…。
西端部の<謎>
もう一つだけ、疑問に思っていることを書いておきます。それは上田城の西端部について。
矢出沢川の谷地形の末端部には、不思議な凹みが2ヶ所あります(図の①、②)。グレーで示した部分が谷筋だったとするなら、ちょっと不自然な地形のようにも感じるんですよね。単に川に削られただけなのかもしれませんが、現地でこの場所を実際に見てみると、谷底に向かってなだらかに下る緩斜面になっていて川の浸食のようにも思えず、私は人の手による造成の跡だと考えています。そしてもう一つ、こちらは明らかに人工的と思える突出地形が谷の向かい側にも見られます(③)。このあたりは仙石氏が復興して以降の上田城では城外とされていたため、大掛かりな造成が行われたとは考えにくいですし、また近代以降でも、私が見た限りの古い地図や航空写真では特に地形変化は確認できませんので、もしかすると真田氏時代、あるいはそれ以前の小泉氏時代まで遡る遺構の可能性もあるかもしれません。
私の想像では、①については、築城時に谷を塞ぐための堤が築かれた際に、土砂を採取する目的で土地が削り取られた跡なのではないかと思っています。ただ、問題は②です。これも何らかの意図を持って造成が行われた痕跡なのだとすれば、その目的が知りたくなります。
よく見ると③の対岸の④にも小さな突出があるので、これを結んでもう一つ水堀を造ろうとしたのでしょうか?あるいは、どんどん北に掘り進めて蛭沢川を南に流すための河道とし、東→北→西と連続する「惣構え」の完成が計画されていたのでしょうか?(実際の蛭沢川はそのまま西進して矢出沢川に合流していました)…小さな謎から大きな妄想が膨らみます。
上で示した④の先端部。右の台地上にあるのは芳泉寺で、私の実家の檀那寺でもあります。
それぞれの妄想案を図にしてみました。
③と④を結んで谷の西端にもう一つ水堀を造ってみました。巨大な堀が追加されるのだからさぞ心強いだろうと思ったのですが、こうして見るとあまり役に立ちそうにないというか、逆に敵の侵入路を増やす結果にもなっているような…。どうやらこれは蛇足のようですね。
もう一つの、②から北側に向かって河道を掘り、蛭沢川を矢出沢川から分離させる案です。これで城の周囲を東→北→西と「コの字」型に囲む「惣構え」が完成することになり、その外側を相似形で並行する矢出沢川と合わせると、城の縄張りとしても非常に美しく完成度が高いものとなります。ただ、この流路変更が城の守りの強化になるのかというとその効果は甚だ疑問で、完成度よりも実用性が重視されたとすれば、特に必要ない部分でもあります。
別の可能性としては、これが当初の矢出沢川の河道になる予定で開削が始められたものの、途中で流路がより西側へと変更されて造成が中断された跡とも考えられますが、さてさて。
築城当初の城の正面は北(正確には北西)方向でしたので、この西端部付近にも何かしらの手が入れられる予定はあったはずですし、多少の造成は始められていたのかもしれません。しかし結果的にそれが完成するには至らず(破却で失われた可能性も否定できませんが)、以降は江戸時代を通じても城の西側の一帯はほとんど利用されることがありませんでした。ただし、小泉曲輪からは真田氏時代のものと思われる土塁の跡や瓦などが出土しているそうなので、少なくとも関ヶ原以前にはそれなりの機能が与えられていたことは確かでしょう。
ところで、「小泉曲輪」といえば小泉氏です。その①の最後でも軽く触れましたが、今回は私の考える上田城築城以前の地形図から、その館の位置などを間単に考察してみましょう。
私が考える当時の地形です。小泉氏の館はこの図中のどこかにあったとは伝わるものの…
それがAの側だったのか、Bの側だったのか、それとも両方なのかすら分かっていません。
Aの側であったとするなら、唯一の地続きである北東の川に挟まれた部分を切断しておけば独立性は確保出来ます。四方を河岸段丘と谷地形に囲まれたそれなりの天然の要害ですね。
Bの側だったとするとこんな感じでしょうか。こちらも蛭沢川の谷に囲まれて守りは堅そうですが、逆にAの側に侵入されたりすると対応に困りそうです。それならばいっそのこと…
このように両側を使って、Bに館を置き、Aの側を屋敷地にすれば良さそうにも思えます。まあ、小泉氏がどれくらいの勢力であったのか分かりませんし、これまで遺構らしきものがほとんど出ていないとも聞きますので、これは私の完全な妄想話としてお聞き流し下さい。
ところで「天正年間上田古図」をよく見ると、左端に「志ん(新)道」と書かれた道があります。いったい何が「新」なのでしょう?実は、この矢出沢川の谷の西端付近には上田城が築かれるよりもずっと以前から東山道が通っていて、そのすぐ南側には千曲川を渡るための渡し場が設けられていました。小泉氏がこの付近に館を置いたのも、その渡河点を押さえることが目的だったのではないかと言われています。上田城の築城の際に、新しい矢出沢川の河道が開かれるのと合わせて東山道もその西側へと移設されたことから「新道」と呼ばれたのでしょう。移設の理由は言うまでもなく、矢出沢川より東側、つまり城内に街道の往来があることが嫌われたからだと思います。城地としての造成予定もあったのかもしれません。
このように、若干影の薄い存在である上田城の西端部付近も、実はそれなりに複雑な歴史を持つ土地なのだ、ということに軽く触れたところで今回の余談は終わりたいと思います。
次回は私の「真田氏時代の上田城復元案」についての解説です。