それでは築城を始めましょう!
築城の土台となるのは、こちらの地形です。なぜこんな地形となっているのかについては、その④とその⑤をご参照下さい(私の案に納得できない方も、「こんな考え方もあるんだ」という程度に見て頂けると幸いです)。
なお、同地を流れていた矢出沢川と蛭沢川の流路は既に変更してあります。この流路の変更については、とりあえず通説(その①を参照)に従います。築城前に既に矢出沢川の新河道が完成していたのか?と疑問に思われるでしょうが、それについては次回で補足しますね。
まずは城地の選定です。上田城の築かれた台地は、東から西へ向かって緩やかに傾斜をしています。つまり東側が高くて西側が低いのです。これは現在でも上田城の崖下の道路を西に向かって進んでみれば、よく分かるかと思います(Googleのストリートビューでどうぞ)。
ですので、あまり西側だと河岸段丘の崖の高さを城の防御に生かせません。逆に東側へ寄りすぎると、崖の高さこそ十分にあるものの、今度は北側にある谷筋の地形を上手く活用することが出来なくなってしまいます。なにより、千曲川の分流が崖の直下付近まで最接近していたとされるのが現在の本丸南側の「尼ヶ淵」と呼ばれる場所であり、真田氏が築城した際にも、この立地条件から本丸はほぼ同じ場所に置かれたであろうと私は考えています(別の根拠はその②で)。ちなみに、この千曲川の分流は尼ヶ淵より下流側では崖下を遠ざかってしまっていたようなので、これより以西の城地選定はなおさら難しかったかもしれません。
それでは、場所も決まりましたので築城の開始です。
1.まず谷を塞ぐ堤を築きます。谷と谷の間や周辺の土地を削って、その土砂を盛ります。
2.当初の城の正面であった北(正確には北西)方向の堀になる部分を重点的に広げます。
3.2つの谷に挟まれた土地を削り取り、更に堀を広げます。除かれた土砂は城の土塁に。
4.東側には利用できる谷地形がないため、ここには一から堀を造らなければなりません。
矢出沢川跡の谷は、城より手前にあたる部分を埋めてしまいます。それなりの谷幅はあったはずですし、水を張れば堀としても使えそうなのに、なぜそれを埋めてしまうのでしょう?
答えはその方角。城から見ると北東、つまり「鬼門」にあたるからです。本丸にある隅欠の存在からも分かるように、真田氏は鬼門に対しては非常に強い意識があったと思われます。
ですから、その方角から城へ向かって来る谷地形というのは絶対に忌避すべき存在であり、その有用性など完全に無視して、跡形も残さず徹底的に消し去ったのではないでしょうか。水堀の導水路が真北へと移動されている点を見ても、その意識の強さはうかがえますよね。
上田城の北側付近から急速に谷地形が発達したように見えるのは、その手前にあった谷筋が人為的に埋められて消失しているからだと私は考えます。そしてその理由は鬼門にあると。
(※追記:この部分に関しては、「補稿:新仮説」と「補稿の補稿」で修正を加えました)
城の造成と前後して、その東側には単郭構造の屋敷が設けられたようです。築城用の陣地とされたのかもしれません。「天正年間上田古図」の同部分には小山のようなものが描かれていますので、もともと微高地であった土地の周囲に蛭沢川の水を廻らせたのでしょう。
なお、上田古図にはその南側に「常田御屋敷」と書かれた別の屋敷が見られます。一般的にここは後の藩主屋敷(現在の上田高校)だと解釈されているようですが、私は描かれている谷地形(その⑥をご参照下さい)から、それより西側の現在の上田高校グラウンドにあたる場所ではなかったかと考えています。上田城築城以前には常田氏の館があったとも言われており、自然地形を利用した居館遺構として見た場合も、この位置の方が適切に思われます。
屋敷地と思われる場所が2つ存在するのは、築城を主導したと言われる徳川氏と真田氏とで別々の築城用陣地を使用していたからかもしれませんね。
堀に水を入れてみましょう!
この段階では、まだ二の丸の外郭部までしか表示していません。内郭部分を公開する前に、とりあえずこのままの状態で文字や記号を図の中に書き加えてみます。
この図を、「天正年間上田古図」と比較してみて下さい(下図は参考用の私の模写です)。
いかがでしょう?細かな相違点はありますが、水堀の配置や形状、虎口の位置や形態などはかなり再現できているように思うのですが…。
これまで、上田古図に描かれている「屋形」というのは、真田氏時代の本丸を指している、との解釈が一般的だったはずです(その③でご紹介した復元案もそうでした)。たしかに、古図中に描かれた「大堀」を仙石氏の復興した上田城の二の丸外堀、その内側にある水堀を同じく本丸堀とみなせば、その本丸堀の内側に位置する「屋形」は当然ながら本丸である、という結論にはなります。ただ「大堀」はともかくとして、その内側にある水堀を本丸堀とするのは早計かもしれません。もし本丸堀の外側にもう一つ別の、ここでご紹介するような未知の水堀が存在したとすれば、「屋形」が本丸である必然性はなくなるわけですからね。
今回の私の復元案では、この「屋形」が二の丸外郭のことであると解釈することにします。
そもそもこの上田古図は何を目的として描かれたものでしょう。全体を見る限りは、城郭図というよりもその周辺地域の水系の様子を確認、把握するための絵図のように思われます。もし水系の確認、把握を目的とした絵図だとすれば、そこに当時の最重要機密だったはずの城の内郭部の構造を詳細に描き込んだりするでしょうか?江戸時代の城下町絵図を見ても、町割を主体に描かれたものでは城の内郭部を省略したものが多いですからね(実例としてはこちらとかこちら)。上田古図もそれと同様であったと考える方がより自然に思われます。
さてその省略された内郭部ですが、私は仙石氏が大筋で真田氏を踏襲したと考えています。
こちらが「天正十二年頃の上田城復元案」になります。仙石氏の復興した上田城では全くのデッドスペースと化していた「武者溜(旧市民会館/現大河ドラマ館のある場所)」の部分は、真田氏時代の大規模な馬出し状の遺構を不完全な形で復原したもののように見えます。おそらく二の丸大手虎口の位置を南側へ移動した結果、本来の機能を失ってしまったのかもしれません(こちらの絵図の右下部分が「武者溜」。名前は立派なものの、用途は不明)。
その馬出し状の郭の南端に、崖際に面して上田古図に描かれたもう一つの虎口が設けられたと私は考えています。北側の虎口が大手だとすると、こちらは通用口的な役割でしょうか。
重要なのは、これがまだ完成形ではないという点。天正十二年といえば、築城開始の翌年。城は一応の形を成していたとは思われますが、まだまだ未整備の部分も多かったでしょう。特に城の西側部分は上田古図にもモコモコとした小山がたくさん描かれており、想像するにこれは造成途中の土塁用の土砂が無造作に盛られていた、という表現なのかもしれません。
上田城はこの後、上杉氏による改修や、真田氏自身による改修も随時行われたようなので、より強固な城郭に仕上げられたと考えられます。もちろん天守閣も建てられたでしょうね。
これが私の考える、ほぼ完成形としての「真田氏時代の上田城/復元案A」。上田古図では柵が描かれていただけの大手正面は水路と虎口で強化され、常田御屋敷の東隣に新たな屋敷を整備。二の丸西側の守りも万全に固められています。大手正面の虎口は私の勝手な妄想に見えるかもしれませんが、実は参考にした絵図があります。それが元和年間上田城図。
これも私の模写です。微妙に内容の異なるものが何枚かあるので、部分ですがもう一種類。
この絵図で注目すべきは、「古城」に三重の堀と三の丸が明確に描かれている点、本丸堀と二の丸堀が北西角で連絡している点、そして「中屋敷」から南に不思議な形の水路が伸びている点の3点ではないでしょうか。「三重の堀」、「本丸堀と二の丸堀間の連絡」は復元案でも部分的に再現しています。問題は「中屋敷の南にある水路」で、これが何であるのかは昔からずっと疑問でした。ただの排水路なら2本も必要ないはずですし…。虎口の遺構ではないかと考えてみたものの、具体的な形が全く思い浮かびません。この部分は自分の中では長年の懸案事項だったのですが、同じ真田氏の城、沼田城の独特な形状の虎口を眺めているうちに次第に形がまとまり、ようやく納得できる姿となったのが復元案に示したものです。
これは「真田氏時代の上田城/復元案B」。上掲の絵図の「三重の堀」を尊重した案です。蛭沢川の谷跡を最大限に活用しており、絵図の再現度も高いのですが、あまり面白みのある縄張りではないですね。ただ、築城当初の計画がこちらだった可能性はあります。現在でも本丸の形状が微妙に歪んでいる(東から西に向かって敷地の南北幅が狭まっている)のは、本丸堀の北辺部分が蛭沢川の谷筋と平行になるように掘られた名残りなのかもしれません。また、仙石忠政が「おぼへ書」で触れている「歪み」の最大の原因もこれだったのでは?
A案を少しだけ発展させてみた「真田氏時代の上田城/復元案A+」。二の丸北側の虎口の周辺を強化するとともに、敷地も若干広げています。もっと手を加えたいのは山々ですが、これ以上は根拠ゼロの完全妄想になってしまいますので、自重したいと思います(ここまで出した案には、大小、こじつけに近いものまで含め、各所それなりに根拠はあるんです)。
築城前/天正十二年頃/復元案A/復元案B/復元案A+/江戸時代中期頃
(スライドショー形式で比較)
さて、いかがでしたでしょうか。復元はそれなりに頑張ったつもりなのですが…。
細部についての解説は、次回以降に余談を交えながらしたいと思います。今回はとりあえず復元案を披露することが目的なので。これが少しでも皆様の考察の足しになれば幸いです。