真田氏時代の上田城考/補稿:新仮説

真田氏は鬼門に関心がなかった!?

 

ふとした疑問

私が以前に書いた「真田氏時代の上田城考」を読まれた吉池さん(同じ上田高校の卒業生だそうです)という方からコメントを頂き、それ以来メールの交換をしながら上田城について「あーでもない、こーでもない」と語り合わせて頂いております。そのやり取りの中でふと疑問に思ったことがあり、それをきっかけに再び上田城に関する妄想が大爆発してしまったため、今回そこから生まれた大胆すぎる新仮説を「補稿」として書いてみることにします。

さて、私が何に疑問を持ったかというと、それは真田氏の「鬼門」に対する認識なのです。

ご存知の通り、上田城本丸の北東角部分には鬼門除けのためと思われる隅欠が見られます。この遺構が鬼門対策のためのものであるという解釈については私も異論はありません。同じような事例は他にもたくさんありますからね。京都御所の猿ヶ辻とか、東本願寺の北東角は分かりやすい例でしょうし、城郭でも鹿児島城の本丸が北東角の石垣の隅を欠いていたり、大分県の日出城には北東角の壁面を落とした「鬼門櫓」なんて建物まであったりもします。

京都御所/猿ヶ辻
京都御所の北東角にある猿ヶ辻
渉成園
渉成園の北東角も隅を欠いています

このため、上田城築城にあたっては真田氏が鬼門を非常に強く意識していたという考え方がこれまでの常識であり、前回私が真田氏時代の上田城について考察した時もそれを大前提としていました。しかしです。鬼門に対する意識がそれほど強かったにしては、上田城以外の真田氏の関連遺構に同様の鬼門対策がほとんど見られないという点がなんとも不可解です。しかも同じ真田氏時代の上田城ですら隅欠の存在が明瞭でない場所があったりもするのですからね(常田御屋敷や上田藩主屋敷など)。さてさて、これはいったいなぜなのでしょう?

 

真田氏館跡の考察

上田城と同様の鬼門除けの例としては、真田氏が上田城築城前まで本拠にしていたとされる(確実な証拠はないようですが)「真田氏館跡」の南東角部分の入隅が挙げられているのをよく目にします。でも、私にはこれが鬼門除けのために設けられたとは思えないんですよ。

真田氏館跡
真田氏館跡(※国土地理院の航空写真を加工したもの)

上の画像は真田氏館跡の航空写真と、その土塁の輪郭図です。この居館には北、南、南東の3ヶ所に虎口が開かれていたと考えられ、特に南東の虎口付近が内側に折れ込んでいるのが特徴的です(北西隅の小さな囲いは厩跡とされています)。この部分を上田城と関連付けて鬼門除けだとする見方もありますが、それについてはどうにも納得が出来ません。南東方向に隅除けを設けるなんて他に聞いたことがありませんし、冷静に観察すればただの内枡形のようにも見えますからね。私たちは先に上田城の隅欠の存在を知っているからこそ、これも類似のものではないかという先入観が働くのであって、何の予備知識もなくこれを見せられたとしたら、はたして同様の感想を持つでしょうか?あるいは仮に真田氏が南東方向を忌避しており、そのための隅欠であったとしても、上田城のそれとは方角的に矛盾が生じます。

真田氏館跡周辺の地形図
真田氏館跡周辺の地形図(※国土地理院の標高図を加工したもの)

周辺の地形を見てみましょう。真田氏館は東から西へ向かって下る扇状地の斜面上にあり、北側は大沢川の谷筋に面し、地形図をよく見ると南側にも小規模な谷地形が存在することが分かります。つまりこの居館は北と南を谷地形に挟まれた東西に細長い台地の上に立地しており、その高低差を利用することで南北両面の守りを固めていたものと思われます。西側は下り斜面で、弱点となる高台の東側では南北の幅が狭まっているため守るには好都合です。

真田氏館の推定図
真田氏館の推定図

現状ではその遺構は確認できませんが、居館の周囲には土塁の外側に堀も巡っていたことでしょう。傾斜地に立地することから、居館の敷地内には段差が見られ、大きく分けると東西方向に2段、細かく見ると4段ほどで構成されていたようです。南北の虎口はその最下段に位置しており、特に北側の虎口は厩とされる場所から馬を出すには最適だったでしょうね。

さて、問題は南東の虎口です。こちらは南北の虎口とは違って居館の上段部に直接開かれていますから、より厳重な守りが必要とされたことでしょう。屋敷地よりも高台となっている東側は特に警戒すべき方角でもありますからね。ですから、平入りに近い南北の虎口に対し南東角の虎口は内枡形の堅い守りとしたのではないかと私は思うわけです。もしかすると、館の東側には堀切で隔てられた守備用郭があり、それとの連絡口だったとも考えられます。

このように、真田氏館の南東角の形状はあくまでも守備的な要因から来るものであり、鬼門とは特に関係がないのではないかと言いたいのです。そう見えてしまうのは、上田城の隅欠の存在を認識してしまっているが故の先入観からではないかと。裏を返せば、これを強引に鬼門と結び付けてしまわなければならないほどに上田城以外での真田氏と鬼門との関係性は希薄であり、むしろ上田城の隅欠の方が真田氏関連としてはイレギュラーに思えるのです。

砥石城、岩櫃城、名胡桃城、沼田城、そして真田郷の山城の数々…。真田氏が一から築いていない城や、縄張りの分析が難しい山城なども多いために断言は出来ませんが、少なくとも上田城のような鬼門に対する強烈な意識が感じられる城というのを、私は他に知りません。

 

上田城の隅欠を設けたのは誰か

それでは、上田城に見られる鬼門除けの隅欠はいったい誰が何の目的で設けたのでしょう?

それはずばり「徳川の意向」だったのではないかと私は考えます。

最近の学説によれば、上田城の築城を主導したのは徳川氏であった可能性が高いとのこと。築城で最も負担が大きい作業は普請、つまり土木工事であり、徳川が主導的にこの普請作業を担ったとするなら、そこに彼らの主張が反映されたとしても全く不思議ではありません。

でも徳川(ここでは家康のこと)の城って、そんなに鬼門を強く意識していたでしょうか?
その疑問を解決するためにも、家康と関係の深い城をいくつか見てみることにしましょう。できれば上田城と同時期の城で比較をするのが理想的なのですが、岡崎城や浜松城の縄張りには細かな屈曲部が多いため見方次第ではどのような解釈も可能であり、残念ながら比較に向きません。ここでは主に慶長期に築かれた徳川関連の城を取り上げてみたいと思います。

 

徳川の城に見る鬼門除け

※城の縄張りを見るのが目的ですので、今回は城外の寺社の配置などについては除外します

江戸城
江戸城(※国土地理院の航空写真を加工したもの)

まずは江戸城から。本丸、二ノ丸、三ノ丸の北東部の輪郭を見ています(赤線)。もともと折れの多い塁線をしており、江戸期を通じて何度も修築が行われたために家康時代の姿とはかなり異なっていることも確かですが、少なくとも南東部(画像右下)のような明確な直角ラインは見られませんよね。そして何よりも注目すべきは、青丸で囲んだ平川門。この門は「不浄門」とも呼ばれ、城内から出た死人や罪人、また汚物などを運び出す際に使用される門でした(隣の帯郭門を指すという説もあるようです)。あの浅野内匠頭もここから城外へ出されたとか。これは穢れを持つものが二度と城内に「入ってこない」ようにするための門であり、「災厄を入り込ませない」という鬼門封じと意味合いが重ねられているわけです。

名古屋城
名古屋城(※国土地理院の航空写真を加工したもの)

続いては名古屋城です。本丸の塁線こそ何もせず直角に折れていますが、その外郭にあたる深井丸~二之丸にかけての北東部は細かな折れを多用して隅を欠いているのが分かります。特に本丸の北東角に一番近い部分(青線)が斜めに切られている点などは興味深いですね。

大坂城
大坂城(※国土地理院の航空写真を加工したもの)

徳川再興の大坂城です。基本的には豊臣氏時代の縄張りを踏襲したものと考えられますし、城の復興自体も家康の死後に行われたものですが、参考までに見てみることにしましょう。

本丸(山里丸)と二の丸の北東部の塁線はどちらも斜めに切られており、折れがある部分についても鈍角となるように(角が立たないように)工夫されているようです。また、図中の青屋口にあった「算盤(そろばん)橋」と呼ばれる可動式の橋は常に城内側へ引き込まれたままの状態となっており、通用の門として使用されることはなかったとのこと。存在はしていても決して開くことのない門、これもまた鬼門への対策の一つであったかと思われます。

駿府城
駿府城(※国土地理院の航空写真を加工したもの)

家康の隠居城である駿府城です。この城の北東部分は多様な対処法が見られるのが特徴で、隅を欠いたり(本丸:緑部分/堀が現存していないため点線で表示)、折れを鈍角にしたり(二ノ丸:オレンジ部分)、斜めに切ったりと(三ノ丸:青線)自在さすら感じられます。

福井城
福井城(※国土地理院の航空写真を加工したもの)

家康の次男である結城秀康が初代藩主を務めた福井城(築城当時は北ノ庄城)。家康自身が縄張りを行った城とも言われています。本丸の北東部分は隅を欠いており、「北不明御門」という門が設けられていました。「不明御門」=「開かずの門」ということになるわけで、江戸城や大坂城と同様の役割が与えられていたのでしょうね。現存しませんが、古い絵図を見ると二ノ丸やその北側の曲輪、さらに外郭部の塁線など多くの場所で北東角の隅を欠いた様子が描かれており、城域全体にかなり入念な鬼門対策が施されていたことが分かります。

篠山城
篠山城(※国土地理院の航空写真を加工したもの)

徳川の命により天下普請で築かれた篠山城です。これまで見た中で最もシンプルかつ明快に北東部分の隅を欠いていますね。篠山城や先ほどの名古屋城の縄張りを行ったのは藤堂高虎だと言われていますが、高虎が築いた自身の城(宇和島城、今治城、津城、伊賀上野城)の縄張りからは、このような鬼門に対する強い意識は特に感じられません(もちろん皆無ではないのでしょうが)。つまり、縄張りを担当する高虎に対し家康が特別にそのような指示を出していた可能性もあるわけで、同様の口出しを上田城の築城時にもしていたとしたら!?

二条城
二条城(※国土地理院の航空写真を加工したもの)

気になるのは二条城です。家康が築城した当初は現在の城域の東半分くらいの面積であったそうですが、その当時の北東角はどのようになっていたのでしょう?改修後の姿を見る限りでは隅は欠いてはいませんよね。ただ、これを何もしていなかったと見るのは早計であり、上図の緑色の部分の扱いにも注目すべきなのです。実は鬼門対策には「隅を欠く」以外にもさまざまな手段があり、「建物を建てない」「荒地のままの状態にする」といった人の手を加えないようにする方法、逆に「丁重に扱う(祠や社を置く)」方法などもあるからです。

改修後の二条城の絵図を見ると、同地には「東御番頭小屋」という書き込みがあるものの、どうやら建物などは建てられていなかったようです。だとすると、家康時代の二条城もまたこれと同様の対処がされていたのではないかとも思えてきます。城のすぐ北東方向には御所があるため、あからさまにその方角の隅を欠くようなことはせず、城の敷地内に鬼門対策を施したのではないかと。まあ、こればかりは憶測で語るしかない部分ではありますけどね。

 

上田城
上田城(※国土地理院の航空写真を加工したもの)

こうして見てくると、上田城の隅欠(点線部分は私の復元案に沿ったもの)は真田氏よりもむしろ徳川氏に由来したものと考えた方が矛盾が少ないような気がするんですよ。上田城は規模の小さな土塁造りの城なので、他とは多少印象が異なって見えるかもしれませんが…。

とはいえ、別にこのような鬼門対策が徳川氏の専売特許だと言いたいわけではありません。

熊本城
熊本城(※国土地理院の航空写真を加工したもの)

例えば加藤清正の築いた熊本城。本丸や東竹の丸の北東部分が隅を欠いたり斜めに切られていて、大坂城や福井城と同様に「不開門」も設けられています。築城にあたって鬼門対策を十分に施せば、必然的にこういった形の縄張りにはなるのでしょう。おそらく清正や家康はその意識が特に強かったのだと思われます。上田城についても、真田氏が鬼門を無視したとまでは言いませんが(寺社の配置などは普通に行っていますし)、あれほど特徴的な縄張りにしてしまうほどの強いこだわりがあったのかというと、他の事例を見る限りはその根拠が徳川氏ほど明瞭ではないのです。そもそも、真田氏にとってみれば上田城の北東には彼らの出自の地である真田郷が存在しており、また信仰の対象であった四阿山の位置する方角にも当たるわけなので、ことさらこれを忌避する理由もなかったようには思われるのですが…。

 

屋敷地の隅欠の謎

実は、上田城に見られる隅欠が徳川氏の意向によるものだったと考えてみると、それまで謎だった部分の説明が可能になる気がするんです。その謎というのは、上田城内における鬼門対策の不徹底さ。以前の真田氏時代の上田城復元案を考えた際にも頭を悩ませた部分です。

元和年間上田城図
元和年間上田城図に見る隅欠の有無

真田信之が藩主であった時代、元和年間の上田城図です。図中の3つの屋敷地に注目すると(廃城部分は描写の正確性に疑問があるのでここでは除外します)、中央の中屋敷(A)にはっきりと描かれている北東角の隅欠が、他の2つの屋敷地(B、C)には見られません。
同じ真田氏時代であるのに、なぜこのような違いが生じているのかが以前からの謎でした。

昌幸から信之へと世代が移っていますから、父子間における鬼門への意識の違いがあったのかもしれませんし、昌幸時代に既に価値観の大きな変化が起こっていたとも考えられます。
ところが、築城当時から存在したらしい中屋敷(A)と、それ以後に整備されたと思われる上田藩主屋敷(C)との違いについてはこの「価値観の変化」でも説明が出来るのですが、中屋敷と同時代、あるいはそれよりも前から存在していたはずの常田御屋敷(B)に鬼門の隅欠がないという矛盾については説明が不可能で、謎は依然として残ったままの状態です。

天正年間上田古図
天正年間上田古図に見る築城直後の屋敷地の様子

上田城の築城直後の姿を描いたとされる「天正年間上田古図」を見てみると、中屋敷(A)と常田御屋敷(B)の場所には既に屋敷地が存在しており、上田藩主屋敷(C)の場所にはまだ何もなかったことが分かります。A・Bの屋敷地がより古く、Cの屋敷地が新しいことは先ほどの「元和年間上田城図」での描かれ方にも表れており、不整形で曲線や歪みの多いA・Bに対し、Cの屋敷地は直線で構成された正方形に近い形をしているのが分かります。

さて、この築城当時から存在したと考えられるA・Bの両屋敷地における隅欠の有無の原因とはいったい何なのか。それを説明するためにもいよいよ徳川氏のご登場となるわけです。

築城直後の上田城の東側に2つの屋敷地が描かれている理由については、私は以前の考察で「もともと築城用の陣地として設けられたものではないか。屋敷地が2つも存在するのは、築城を主導した徳川氏と真田氏が別々にこれを使用していたからでは?」と推測しましたが(真田氏時代の上田城考/その⑦)、もしかするとこれが謎を解く鍵なのかもしれません。

 

2つの築城用陣地
2つの築城用陣地

つまりはこういうことです。鬼門の隅欠が徳川由来だとするなら、築城にあたって徳川氏が整備した築城用陣地が(隅欠あり)、真田氏が使用したのが(隅欠なし)だったのではないかと。当時の上田城は徳川領と上杉領の境界ギリギリの場所に位置していたことから、その築城工事に対しては上杉方からの妨害活動が頻繁に行われたと言われており、駐屯する徳川方としてもそれなりの強度を持つ築城用の陣地を必要としたはずです。そこでまず徳川が整備したのがAの屋敷地であり、その北東部分は彼らの価値観を反映して隅を欠いたと。

真田方も同様に築城用陣地を設けたと思われますが、彼らの場合はすぐ近くに砥石城という拠点もあるため、そこまで堅固な守りは設けずとも、作業の指示や資材の管理などが行える最低限の設備があれば良かったのかもしれません。上田古図に描かれた常田御屋敷の構えがAの屋敷地に比べてやや簡素に見えるのも、徳川と真田の立場の違いに起因しているのだとしたら面白いですよね。もちろん、真田もそれなりの兵力は常駐させていたのでしょうが。

私がAの屋敷地を使用したのが徳川ではないかと考えるもう一つの根拠としては、上田古図の当該地に「いなり」としか書かれていない点も挙げられます。これだけ立派な単郭構造の屋敷地を整備しておきながら、その中に置かれたのが「いなり」だけというのはあまりにも不自然。もし屋敷が構えられていたのなら、常田御屋敷と同様に「○○屋敷」と記入されているはずですし…。想像するに、この古図が描かれたとされる天正十二年は築城開始の翌年ですから、ちょうど上田城がそれなりの形として完成し、徳川が築城用陣地を引き払うのとほぼ同時期くらいだった可能性はあります。だとすれば、Aの屋敷地が空っぽの状態である理由も、徳川が撤収した直後の様子がそのまま記録されたと考えれば辻褄が合いますよね。

水運による物資の搬入
水運による物資の搬入

さらに、真田方が常田御屋敷を利用することにもメリットがあったように思います。それは築城用物資の搬入や管理が容易であったという点。徳川方が大掛かりな土木工事(普請)を担当したとするなら、真田方は資材の調達や建築工事(作事)を受け持ったのではないかと考えられます。資金こそ掛かるものの人足数さえ揃えればどこでも始められる普請に対し、作事というのは職人の手配や材木の調達など地元での交渉が必要となるわけで、これを行うとすれば真田の方が適役だったでしょう。しかも、常田御屋敷の直下まで来ていた千曲川の分流を使えば水運による運搬が可能で、屋敷地の北側にあった谷筋から物資を引き上げれば築城現場への搬入作業も容易に行えるという絶好の場所に位置していたことになるのです。

例えば、真田郷から切り出した木材を筏に組んで神川から流します。これを尼ヶ淵の手前で陸上げし、谷筋から引き上げて常田御屋敷周辺で一括管理をする。非常に効率的ですよね。
天正年間上田古図を見ると、この常田御屋敷の北側の谷筋は実際よりもかなり誇張した姿で描かれており(上図の赤丸)、築城当時における重要度の高さを窺い知ることが出来ます。

 

徳川普請と真田オリジナル

さて、私が考えるように上田城の隅欠が徳川の意向によるものであったとすると、これまで謎だった各屋敷地における隅欠の有無の理由についても全て説明が出来るように思います。

元和年間上田城図
元和年間上田城図に見る隅欠の有無

再び前掲の元和年間上田城図です。上田城内やAの屋敷地に隅欠が見られるのは、これらの普請や整備を行ったのが徳川氏だったからであり、彼らの意向が存分に反映されていると。逆にBやCの屋敷地は真田氏が独自に整備したものであり、鬼門対策にもそこまでの注意が払われることはなかったため、結果的に上図のような違いが生じた…ということなのでは?

上田藩主屋敷
上田藩主屋敷

上田藩主屋敷(C)の北東角。一応、申し訳程度には隅欠が存在しています。
真田氏も多少は気を配ったのか、あるいは仙石氏以降の改変なんて可能性も?

結論だけを述べれば意外と単純なことのように思えるのですが、なかなかこの発想には至れませんでした。やはり<真田氏=上田城=隅欠=鬼門>という固定観念が頭に強くあって、まずこれを疑おうなどとは考えないからです。「上田城の築城は徳川氏の主導で行われた」という学説にこれまでの常識を揺さぶられ、それだったらこんな可能性もありなのでは?と妄想が大爆発した結果こんな仮説を思い付いたわけですが、そのあまりにも大胆な内容には自分自身でも未だ半信半疑。まあ、歴史の空想物語としてならなかなか面白いですけどね。

 

幻の河岸段丘?

妄想ついでにもう一つ。

これも先述の吉池さんとの談義の中から着想を得たもので、「堀越堰」と呼ばれる灌漑用の堰の流路についての話題が元となっています(使用した地図はこちら)。

堀越堰
堀越堰(※国土地理院地図を加工したもの)

この堀越堰は上流側と下流側の2つに分かれており、上流側は砥石城の東側、伊勢山付近で神川から取水をし、染谷台地の北辺を通って一旦矢出沢川に合流します。下流側は上田城の北側で矢出沢川から取水、しばらく並行して流れてから北側に折れ、常盤城~秋和を通って塩尻、坂城へと下ります。それまで私は堀越堰が開かれたのは江戸時代以降だと認識をしていたため、「真田氏時代の上田城考」においてもこの堰については考慮外としていました。

しかし、よくよく考えてみると上田城の北西、常盤城や秋和の一帯は条里制の跡が見られるほど古くから開墾が行われていた地域であり、雨量の少ない土地柄、農業用の水を確保するための堰が既に開かれていたとしても全く不思議なことではありません。「堀越堰」として整備されたのは江戸時代以降だとしても、それ以前に何もなかったとは限りませんからね。

堀越堰の前身?
堀越堰の前身?

つまり、上田城の築城により矢出沢川の新河道が開削されるよりも以前から、上図のような堀越堰の前身となる堰は存在していたのではないか?と私は言いたいのです。そして、もしこのような堰が仮に存在していたとすれば、矢出沢川の新河道もこの既存の流路を活用して開かれたと考えることも出来そうですよね。もちろん水量が圧倒的に違うため、それなりに大規模な拡幅工事は必要であったにしても、何もない土地を新規に掘り始めるよりはずっと効率的だったのではないでしょうか。だとすれば、矢出沢川の新河道の中で全くのゼロから掘られた部分は高橋から千曲川へと下る南北の流路だけ、なんて可能性までありそうです。

謎の段差
謎の段差(※国土地理院の標高図を加工したもの)

堀越堰の前身となる堰の流路について考える上で参考になりそうな地形の痕跡があります。上の地形図の点線で囲まれた部分に注目して下さい。東西方向に微妙な段差がありますが、これはいったい何でしょう?現地を歩いて確かめてみたところ、どうやらこの段差は小規模な河岸段丘らしいんですね。ただ、地形図を見てもお分かりの通り、この小段丘が見られるのはごく僅かな範囲のみで、矢出沢川と交差するあたりから東側では見られなくなります。

いくら小規模な河岸段丘とはいえ、こんなに狭い範囲のみで終わってしまうのはあまりにも不自然で、かつてはもっと東側まで続いていたのではないかと思われます。あの上田高校の南側に見られる小河岸段丘でさえ、ずっと東の国分の方まで続いているくらいですからね。

上田高校南側の小河岸段丘
上田高校南側の小河岸段丘
河岸段丘の推測
河岸段丘の推測(※国土地理院の標高図を加工したもの)

あくまでも勝手な推測にはなりますが、河岸段丘が上図の点線のように続いていたとしたらどうでしょう?上田城の北側に見られる条里制の跡がだいたいこのライン上で終わっているため、そこに何らかの地形的な要因を求めるなら、河岸段丘こそがそれではなかったかと。
この推測が正しいのであれば、矢出沢川の新河道は河岸段丘と平行する形で段丘の上段部に開かれたことになりますよね。これより北側では太郎山からの扇状地による傾斜があって、南側には河岸段丘が。もし堀越堰の前身となる堰が存在し、それが矢出沢川の新河道とほぼ同じ流路であったなら、「ここしかない」という場所に通されていたことになるわけです。

台地上の高低差
台地上の高低差(※国土地理院の標高図を加工したもの)

言葉の説明だけでは上手く伝わらないかと思うので図解してみました。上田城のある台地は私が推測する幻の河岸段丘で南北に二分されており、北側からは傾斜地が迫っていました。条里制の跡が見られる常盤城や秋和はこの高い方の台地上に位置するため、そこへ矢出沢川から水を引くためには上流で取水をし、傾斜地を避けつつ河岸段丘の上段部を通さなければなりません。そしてその流路こそが後の矢出沢川の新河道と一致しているというわけです。

かなり都合の良い解釈であることは認めますが、もう一つ興味深いことがあります。それは私が推定する河岸段丘のラインが上田城築城時に開かれた蛭沢川の新河道とほぼ一致をするという点。話は元に戻りますが、そもそもなぜこの河岸段丘が消滅してしまっているのかを考えてみましょう。蛭沢川の新河道は真田氏時代には惣構えとされ、城内と城外とを分ける存在でした(真田氏時代の上田城考/その⑧を参照)。でも、もし惣構えの場所に河岸段丘の高低差が残ったままの状態だとすれば大問題です。なぜなら、城内が城下よりも低い場所に位置することになってしまうのですから。小諸城のように城下町の方が城より高い場所にある例もなくはないのですが、決して好ましいこととは言えません。そこで、外堀の造成をする際などに出た土砂を盛って城内側の土地を嵩上げしてしまったのではないでしょうか。段差といってもせいぜい1~2メートル程度であったと思われますし、嵩上げが必要となる面積もそこまで広くはなかったはずですからね。そして、もともとあった河岸段丘との境界部分を埋め残して蛭沢川の新河道にしたとすれば…。う~ん、妄想のしすぎでしょうかね?

不自然な土地の窪み
不自然な土地の窪み

でも、そう考えると長い間の疑問が一つ解けたような気もします。それは上図に示すような不自然に土地が窪んでいるように見える場所(①、②)が存在する理由です。以前にも書きましたが、この削り取られたように見える地形がもし人工的な造成によるものだとしたら、その目的がいったい何であったのかがずっと気になっていたのです。今回の仮説に従えば、これは土地を嵩上げするために土砂を採取した痕跡、ということにはならないでしょうか?

土地の嵩上げ
土地の嵩上げ

こんな感じで惣構え(蛭沢川)より内側に土砂を盛って、城下との段差をなくしたのでは?
だとするなら、上田古図に描かれた蛭沢川の新河道が妙に幅広である理由も見えて来ます。

蛭沢川の新河道
妙に幅広な蛭沢川の新河道

上図の点線で囲んだ部分が上田城の築城によって新たに開かれた蛭沢川だと思うのですが、その川幅は意外なほど広く、しかも途中に中洲のようなものまで描かれているんですよね。幅が広いのは誇張であるにしても、土地を掘り込んで開いた河道に中洲が出来るというのは少し不自然なように思われます。これってつまり、城内側の土地の嵩上げがまだ不十分で、川幅を狭めることが出来ていない状態ということではないでしょうか?周辺に人家も描かれていませんから、未だ造成の真っ只中であったと。いや~、これもなかなか面白いですね!まあ、全ては私が考える「幻の河岸段丘」が実在しなければ成立しないお話ですけれども。

 

…とまあ、節操もなく妄想を書き連ねてしまいましたが、この辺りでそろそろ終わりにしておこうと思います。また何か思い付いてしまったら補稿として追加するかもしれませんのでその時はどうぞよろしく。それでは長々とお付き合い頂きどうもありがとうございました。

 

補稿の補稿できました→こちら
現地巡りと新しい妄想→こちら

 

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