真田氏時代の上田城考/補稿の補稿

幻の河岸段丘:追考

 

自説への疑問

前回、上田城の北側には「幻の河岸段丘」が存在したのでは?という考察をしてみました。

前回示した河岸段丘の仮想ライン
前回示した河岸段丘の仮想ライン(※国土地理院の標高図を加工したもの)

もともとこの付近には上図ような東西方向に伸びる小河岸段丘があり、上田城を築城する際に城内側の土地を嵩上げすることによってその段差を解消したのではないか、また段丘との境界部分は埋め残されて蛭沢川の新河道として利用されたのではないか、とも述べました。

しかしこの仮説には自分自身でも納得できない点があり、今回それを再考してみることに。

ここから先が分からない
ここから先が分からない(※国土地理院の標高図を加工したもの)

私が最も違和感を感じたのは、上田城の北東部付近までは小規模ながらも<北高-南低>の段差が継続して見られるのに、それよりも東へ行くとほぼ土地が平坦となって、段丘らしき地形の痕跡が全く追えなくなるという点。そもそも、河岸段丘が東西方向に一直線に伸びているというのが少し不自然に思われますし、周辺の地形との関係を見てもやや唐突な印象を受けます。それでは、幻の河岸段丘はいったいどこへ続いていたと考えるべきでしょうか?

例えば…
例えば…(※国土地理院の標高図を加工したもの)

まず頭に思い浮かんだのがこのようなライン(緑色の点線)です。上田城の東側に見られる蛭沢川の流路がまるで何かを迂回するかのようにカーブしているため、もしかすると段丘のような高低差が存在し、それを避けて流れていたからでは?と考えてみたわけなのですが、しかしこの推定ラインの周辺を観察しても、やはりそれらしい土地の起伏は見出せません。染谷台からの土砂の堆積によって段差が消滅したという可能性も否定は出来ませんけれど。

 

地形の再確認

そこで原点に戻って、上田城北東部の高低差が不明瞭になるあたりから周辺地形をより詳細に観察してみることにしました(現地まで行けないためGoogleのストリートビューで!)。


まずは上田城の北側、かつての蛭沢川の流路であったと思われる付近です。場所は郷土の偉人にして幻のノーベル賞学者、山極勝三郎博士の生誕地前。画面は西を向いていますので右側が北、左側が南になります。この道沿いを進みながら左右を観察してみると、一貫して南側より北側の土地の方が高くなっていることが分かるでしょう。この高低差はずっと先の矢出沢川の西側まで続いており、私が幻の河岸段丘では?と考える根拠にもなっています。


国道18号線の「上田城跡公園入口」の信号を入り、矢出沢川を渡って最初の交差点(東西方向は旧北国街道)です。ここから先、道は南へ向かって緩やかに下っていますが、交差点から見る他の西、北、東の三方向はいずれもフラットで高低差のようなものはありません。


上の場所からもう少し進んで道の左側(東方向)を見ると、小さな段差が生じています。


さらに進んで「北大手町」の信号がある交差点から東方向を見たところ。ここにも高低差があり、道は緩やかに上っています。どうやら、上田城の北東部付近で段丘の向きに変化があるらしく、それまでの<北高-南低>が<東高-西低>へと転じているようなんですね。

この<東高-西低>の段差がよりはっきりと分かる場所があります。それを見るためにも、上の場所から少し東へ進み、柳澤病院の裏手(東側)にある細い道へと入ってみましょう。


柳澤病院の裏手にある道を南に入ったところです。病院の建物がある西側の敷地が低く、逆に駐車場のある東側の土地が高くなっていますよね(画像を左右に振ってみて下さい)。

ただ、この場所だけでは病院の敷地を造成した際に発生した段差という可能性も否定は出来ません。もしこれが河岸段丘なのだとすれば、その先にも同様の段差が続いているはず…。


先ほどの道を南へ進むと清明小学校の西側に出ます。清明小学校はかつての中屋敷(後に作事場)と呼ばれた屋敷のあった場所に建っており、周囲に土塁の痕跡などが見られます。画像左側の斜面はおそらく土塁の名残りでしょうし、道路のある場所が一段低くなっているのもかつての堀底に通されたからではないかと思われます。さて、ここで注目して頂きたいのは道の両側に見られる高低差です。明らかに右側(西)より左側(東)の方が土地が高いですよね。土塁があるのだから当然では?と思われるかもしれませんが、この左側の土地は道路際だけでなく敷地の内部も全体的に高くなっているのです。また、不思議なことに屋敷の反対側(清明小学校の東側)では敷地の内側と外側でこのような高低差は見られません。

この道をさらに進むと、上田城の大手通りに出て第二中学校に突き当たります。この周辺は城下町時代から現在に至るまで上田の中心市街地であり続けた場所で、さすがに土地の段差などは消滅してしまった…かと思いきや、じっくり観察をしたところ微妙な高低差を発見!


第二中学校の東側、市役所の駐輪場へ入る路地付近に非常に僅かな傾斜があるんですよ。

では、この路地を抜けた先にはいったい何があるのでしょう?

上田高校の北西角

そうです。上田高校、つまりは旧上田藩主屋敷の西面にある段差へと続いているんです。

上田高校の南面

そしてこの西面の段差は前回もご紹介した上田高校南面にある小河岸段丘に結び付きます。

河岸段丘が結び付いた!?
河岸段丘が結び付いた!?(※国土地理院の標高図を加工したもの)

なんと!微妙な段差を追いかけ続けていたら、思ってもみなかったような場所に結び付いてしまいました。これには自分自身でもびっくりです。上田高校南側の小河岸段丘はそのまま西側へと続いて、尼ヶ淵のあたりで消滅しているものだとばかり思っていましたからね…。

上記の内容を地図上で確かめてみましょう。

地図上で確認
地図上で確認(※国土地理院地図を加工したもの)

赤線が明確な段差、緑線が小規模な高低差、青色の矢印は道路の勾配(下り)の方向です。また、地図中のの数字は、上で例示した同番号の画像のおおよその位置になります。

推定される周辺地形
推定される周辺地形(※国土地理院の標高図を加工したもの)

もしこの河岸段丘の仮想ラインが正しいのであれば、上田城が築城される以前の周辺地形は上図のようであったと考えられます。こうして見ると、上田城は河岸段丘の上に築かれた城ではあるものの、台地上では最も低い場所に位置する「穴城」だったのかもしれませんね。お城の周辺を歩いてみてもあまりそういった印象を受けないのは、土地を嵩上げするなどの巧みな造成によって高低差を目立たなくさせようと苦心した築城者の努力の成果なのかも?

また、土地の高低差をじっくり観察してみると、私が「真田氏時代の上田城考/その⑦」で述べた「上田城より北東の矢出沢川の旧河道は埋め塞がれた」という仮説はどうやら間違いだったようです。なぜなら、私が矢出沢川の流路であったと仮定した場所には現在も段丘と思われる高低差が残っており、河道跡の谷を埋めたような痕跡は全く見出せないからです。
だとすれば、矢出沢川の旧河道は上図のようにもう少し北側から回り込むように流れていたことになるかもしれませんね(これは前回もお名前を出した吉池さんの案に一致します)。

そもそも私がなぜ「河道跡を埋め塞いだ」などという突飛な発想に思い至ったかというと、上田城の北側付近で谷地形が急激に発達した理由が分からない、という謎に答えを出そうとしたからでした。本来はもっと手前から谷地形は存在していて、築城時にそれを埋め塞いでしまったが故に城の北側で谷地形が急発達したかのように見えてしまうのではないか、と。

ただ、今回推測した周辺地形を見ていると、最初の頃(真田氏時代の上田城考/その④)に考慮外としたはずの「地質の変化」こそが最大の要因ではないのか?とも思えてきました。上田城の立地する台地は「上田泥流層」と呼ばれるほぼ均質な地盤によって形成されているそうですが、いくら均質とはいっても、上層部と下層部では多少の性質面の違いは見られるでしょうし、上田城のある最下層部が特に水に浸食されやすい地質だった、なんて可能性もあるのでは?(このあたりは周辺の地質を詳しく調べれば分かることかもしれませんが)。

 

巧みな地形利用?
巧みな地形利用?

もう一つだけ。このような河岸段丘が実在したとするなら、上田藩主屋敷と中屋敷は自然の地形を最大限に利用していたことになりそうです。中屋敷は西面の、上田藩主屋敷は西面と南面の守りに河岸段丘の段差を活用しており、中屋敷の場合はさらに北面の守りに蛭沢川の旧河道も活用していたと考えられますからね。本来は城のウィークポイントとなりかねない段差を逆利用することによって屋敷地の守備力強化に充てるとは、なんというしたたかさ!

それから、2つの屋敷地に挟まれた緑色の点線部分。ここには何があったかというと…

大手虎口
大手虎口

真田氏時代には大手門に相当する独特な形状の虎口が設けられていたのではないか、と私は以前の復元案でもご紹介してきました(真田氏時代の上田城考/その⑦その⑨を参照)。
おそらく、最初は土地の段差を解消するために設けられた土盛り程度の防御であったものが次第に強化され、最終的には上図で示すような虎口にまで発展したとは考えられませんか?

 

…いやはや、今回も妄想が爆発してしまいました。地形の凹凸を追いかけていたら、自分が考えてもみなかったような場所に導かれてしまったわけです。まあ、これも一興ですかね?
はっきり言って地質や土地の形成に関する知識などは全く持っておりませんので、お詳しい方からは笑われてしまうようなレベルのお話かもしれません。それでも、上田城の成立過程を考える上では決して無視すべきではない着目点だとは思いますから、ネタ話の一つとしてでもお読み頂けたのであれば幸いです。それではどうもありがとうございました。

 

現地巡りと新しい妄想→こちら

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です