真田氏時代の上田城考/街道と上田城

上田城の北側について考える

 

旧矢出沢川の流路を修正

まずは今回の本題へと入る前に、前々回前回の考察や現地巡りなどから得られた新情報を元に修正を加えた、上田城築城以前の旧矢出沢川の流路推定図を示しておこうと思います。

旧矢出沢川の流路①

これが私が現時点で最も有力であろうと考えている、旧矢出沢川の流路推定図になります。

旧矢出沢川の流路②

以前の推定流路とはどこが異なるのかというと、黄金沢との合流点から上田城へほぼ一直線に流れて来ていたと思われた旧矢出沢川の流路(点線で表示)が、実はもう少し北側を西進した上で2度の大きな屈曲を経て上田城二の丸の北東端に至っていたのではないか、という点です(詳しくは前回の内容をご覧下さい)。一見すると以前の推定流路の方が無理がなく自然な印象を受けるかもしれませんが、この大きく屈曲した2つの部分(上図の)については、地質と地形の両面からある程度説明することが可能ではないかと考えています。

旧矢出沢川の流路③
※国土地理院の標高図を加工したものです

まずの屈曲点ですが、ここは前回も説明した地質的な境界面に当たっており、矢出沢川が北側の堆積層から南側の泥流層へと流れ出たことで流路面にも何らかの変化が生じたものと考えられますし、次のの屈曲点については私が想定する「幻の河岸段丘」を横切るまさにその場所ですから、どちらも流路が大きく変化する要因としては十分なのではないかと…。

そんなわけで、これ以降の考察においては旧矢出沢川の推定流路は基本的にこの案を前提とするつもりです(従って以前に述べた「鬼門で埋め塞いだ云々…」説は完全撤回します)。

 

街道の変遷と上田城

それでは本題に入りましょう。今回の考察のきっかけとなったのは、以前から何度かお名前を出させて頂いている上田城研究仲間の吉池さんと昨年末にお会いした際に話題となった、とある古い街道の痕跡に関する情報でした。

古い街道の痕跡

吉池さんによると、私が想定する「幻の河岸段丘」の西端部(上図の星印)付近には、古い街道の遺構が見られるとのこと。私の実家からほど近い場所であるにもかかわらず、そんな話は初耳であったために驚いて、さっそくその場所を確認しに行ってみることにしました。

街道探究①

撮影場所:そもそもこの付近に道らしきものがあるという認識すらなかったのだけど、現地に到着してみると確かに河岸段丘から下りてくる小道を発見(場所は右下の地図でご確認下さい)。あまり街道っぽくは見えませんが、このあたりは千曲川が氾濫を繰り返した場所であり、段丘際の地形が変化してしまっている可能性も高いですし、街道が現役だった当時の姿のままというわけではないのでしょう。

 

街道探究②撮影場所:段丘の坂を上がると、その先では道が一直線に東に向かって続いています。

 

 

 

街道探究③

撮影場所:もう少し進むと、道路脇に何かの説明板が立っていました。何気なく読んでみたらなんと「東山道曰理駅わたりのうまや跡推定地」と書かれているではありませんか。えっ、ここってまさかあの東山道だったの!?とびっくり仰天。

曰理駅の解説
曰理駅の解説

唐臼遺跡の塔心礎説明板から南に30mほど入った場所にはこのような穴の開いた大きな岩があり、解説文によるとこれは唐臼遺跡と呼ばれる塔の心礎だそうで、周辺からは瓦塔片も見つかっているのだとか。「曰理=わたり=渡り」となるため、この付近が東山道における千曲川の渡河点であったとも考えられ、そこに置かれた駅に関連する遺構の一つではないかとのことでした。

東山道曰理駅の推定地としては他に信濃国分寺付近とする説もあるそうですが、その根拠が「渡河点らしき地名が見られる」といういま一つ説得力に欠けるものであり、実際に遺跡が残っているこちらの方が曰理駅の推定地としてはより有力なのではないかと私は考えます。

 

街道探究④

撮影場所:先ほどの道をさらに進むと、諏訪部地区を南北に通る道路にぶつかります。

諏訪部地区内ここは前回の「幻の河岸段丘巡り」の時にも来た場所です。写真の中央部で路面がガクンと下がっている場所がありますが、あのあたりを河岸段丘が横切っているものと思われます。

つまり、これまで辿ってきた古い街道(おそらく東山道)は、「幻の河岸段丘」に並行するように段丘上段の崖際ギリギリを東西方向に通っていたらしいんですね。これは興味深い。

諏訪部地区の説明板
諏訪部地区の説明板

余談ですが上田市内、特に千曲川の周辺には「須波」や「諏訪」の付く
地名が多く見られ、古代より諏訪氏との関係が深かった土地のようです

 

北国街道
※国土地理院の淡色地図を加工したものです

この付近を通る街道といえば、もう一つ「北国街道」があります。上田城の北側を西進し、矢出沢川の新河道が南に折れる高橋のあたりでやや北西に進路を変えるのですが、その高橋の前後で街道は不自然な直角の折れを何度か繰り返しています(上図の中央部)。いかにも城下町の出入口らしい工夫であるとは言えるものの、この街道は上田城の築城以前から存在していたはずであり、その頃のルートがどうであったかが気になるんですよね。そこで注目してみたのが上図に赤色の矢印で示した部分。用水路の細い水色のラインが見られますが、もしかすると古い街道筋はこの水路に沿うようなコースだったのでは?と考えたわけです。

 

街道探究⑤

撮影場所:というわけで、地図に描かれた用水路までやって来ました。たしかに水路に沿って道はあるのだけど、現状を見る限りではこの場所がかつて街道であったと言えるほどの確信は持てません。ただ、この写真とは反対の東側を見てみると…

向源寺裏道幅が若干広がって、クネクネと曲がりながら奥へ続いています。この微妙なうねり具合がいかにも古い街道っぽいんですよね~。ここは向源寺の北側に面した場所なのですが、お寺の敷地が水路や道の形に沿って湾曲しているということは、ここにお寺が建てられるより前から水路や道が存在していたことになるのでしょう。向源寺が現在の場所に移って来たのは江戸時代初期頃だそうなので、少なくともそれ以前からあったことは間違いなさそうです。

 

街道探究⑥撮影場所:向源寺裏からもう少し先へ進んだところ。いや~、このあまりに自在すぎる道の曲がりっぷりには感動すら覚えます。古い街道好きにはたまりませんよね。

味のあるカーブこのカーブもまた実に味があって良いです。奥の方に見えるのは矢出沢川。上田城の築城に伴って新たに開削されたものですから、この道や水路の方がより歴史がある存在なのかも。

 

街道探究⑦撮影場所:さらに進むと矢出沢川に架かる「下須波橋」の前に出ます。この橋を渡って50mほど先に見えるのが江戸時代以降の北国街道、そしてそれ以前には東山道であったとも推定される街道なので、かつてはこのあたりで東山道と善光寺街道(北国街道の前身)が分岐していたのではないかと私には思えてしまうのです。

下須波橋付近

下須波橋のたもとで水路と道の左右が入れ替わっています。両者の関係性に明らかな変化が見られる場所であり、もしかするとこの付近で善光寺街道が用水路を跨いで右寄りに進路を変え、上述したような東山道との分岐点方向へと向かっていた名残りなのかもしれません。

 

古代の街道筋の推定図①
古代の街道筋の推定図

ここまでの探索から上図のような古代の街道筋を推定してみました。上田城の北辺あたりを東山道が一直線に通っており、河岸段丘と接する付近には曰理駅が置かれ、ここが千曲川の渡河点になっていた、と。そして善光寺街道は先ほどの下須波橋のあたりで東山道から分岐をしていたのではないでしょうか(緑色の点線で示した部分。曰理駅が機能していた時代はそこから分岐をしていた可能性も考えられますが…)。曰理駅がいつ頃から廃れてしまったのかは定かではありませんが、少し北側の街道脇に天平時代の創建とも伝わる正福寺というお寺があるため、唐臼遺跡にあった寺院が駅の廃止後ここに移動したのかもしれませんね。

古代の街道筋の推定図②

この街道筋を地形面から見てみると上図のようになります。東山道はほぼ「幻の河岸段丘」に沿うような形で泥流層の上段部を通っており、そこから分岐をした善光寺街道は以前にも少し触れた堀越堰の前身と考えられる堰の分流に沿って秋和・塩尻方面へと向かっていたと思われます。東山道が「幻の河岸段丘」の下段部を迂回しているのは矢出沢川の深い谷地形を避けたからでしょうし、善光寺街道が水路と並行しているのは肥沃な堆積層に接しているこの境界部付近に古代から数多くの人家や集落などが点在していたからとも考えられます。

 

街道の変遷(古代~中世)
街道の変遷(古代~中世)

ここで、私が想像するこの地域の街道の変遷について簡単ではありますが図示してみようと思います。まずは古代~中世ころまでの様子。これについては既に上でも述べた通りです。

街道の変遷(戦国時代)
街道の変遷(戦国時代)

続いて戦国時代頃の様子。何らかの理由(おそらくは水害?)によって曰理駅付近にあった渡し場が使用不能となり、やや上流部の矢出沢川と千曲川が合流する付近に新たな渡し場が設けられたものと考えられます。この渡河点を押さえるために地元豪族の小泉氏が段丘上に館を構えていたとされており、これが上田城の「小泉曲輪」という名前にも残っています。

街道の変遷(真田氏時代)
街道の変遷(真田氏時代)

戦国末期、真田昌幸が上田城を築城した頃の様子。矢出沢川の新河道が開削され、東山道の上田城よりも西側部分はその新矢出沢川の外側へと移されたようです。天正年間上田古図の左端に「志ん(新)道」とあるのがそれにあたり、かなり強調された姿で描かれています。善光寺街道との分岐点については上図のの3箇所が考えられますが、上田古図における縦方向への力強い直線的な伸びを尊重して今回は案を採ってみることにしました。

天正年間上田古図(模写)
天正年間上田古図(模写)
街道の変遷(江戸時代)
街道の変遷(江戸時代)

最後は江戸時代以降の様子です。東山道の機能は徳川によって新たに整備された中山道へと移され、追分宿~上田宿の間と善光寺街道は北国街道に、東山道の上田よりも西側の部分は松本(保福寺)街道へと姿を変えました。真田氏が矢出沢川の西側に移した街道は再び元の位置に戻されて、北国街道の上田城下への出入口付近には直角的な折れが多用されることとなったようですね(この部分は真田氏ではなく仙石氏による付け替えだと私は考えます)。
なお、当初は赤線で示した古くからのルートが使われていたようですが、明治初期の地図を見ると既に現在の国道経由ルートへと変わっており、その時期や経緯については不明です。

 


ここでちょっとした余談

東山道と中山道、そして上田城の関係について気になる点があるので、少し書いてみます。

よく徳川軍が関ヶ原へと向かったルートとして「家康が東海道、秀忠が中山道を…」という説明文を目にするのですが、そもそも1600年の時点では「中山道」という街道は存在しておらず、正しくは「後に中山道として整備されるルートを…」と記述すべきではないかと。

何が言いたいのかというと、秀忠軍は当初、古来からの幹線道である東山道を行軍する予定であり、その街道筋の途中に上田城が存在したからこそこれを攻撃したのではないかということ。後世の視点から見れば「中山道から外れた場所にある上田城なんかになぜ手を出したのか?」となるのでしょうが、それはこの当時の主要道が東山道であったという事実が考慮から抜けているように思います。むろん、上田城攻略を断念した秀忠軍が通ることとなった街道(後の中山道)だってその当時から既に存在はしていましたが、4万近い軍勢の行軍路として考えた場合、直線距離的には近いものの、山がちで人家も少なく、しかもまだ後世のように整備されていなかった後の中山道ルートに比べて、保福寺峠を除くほとんどの区間が平坦で周辺に人里も多い東山道の方が負担が少ないことは明白であり、秀忠が圧倒的な兵力でもって上田城を包囲し、交戦することなく短期にこれを降伏させ、その横を我がもの顔で通過しようと目論んだとしても全くおかしくはありません(認識は甘かったようですが)。

例えるなら、高速道路を大型車で爆走していたら進路上に障害物があったので、車体重量にものを言わせてこれを蹴散らそうとしたところ逆に跳ね返されてしまい、泣く泣く一般道に降りて悪路で迂回した、みたいな話だったのではないかと思うんですよ。秀忠軍としては。

関ヶ原後に徳川が整備した中山道のルートから上田(と松本)は外されました。険しい道も少なく、小諸-上田-松本-諏訪といった主要城下町を経由する東山道が存在していたにもかかわらず、全く別の街道が整備されたというのはなんとも不可思議な話ではありますが、それだけ徳川が上田という地を忌避した結果なのかもしれません(松本はとばっちり?)。あるいは、秀忠が行軍したルートを後追いながらも幹線道化することで、彼の判断の正当性を誇示する狙いもあったりしたのかな(これはさすがに考えすぎかもしれませんけどね)。

余談おわり


 

かなり脱線してしまいましたが、話を元に戻します。

街道探究⑧

撮影場所:下須波橋を渡って、北国街道に出ました。写真は東側を見ていますが、特に起伏などもなくずっと先まで平坦ですよね。では反対の西側はどうかというと…

緩やかな下り坂①

この付近から西側に向かっては、非常に緩やかながらも道が下っていることが分かります。

 

街道探究⑨撮影場所:上の写真の場所から左に折れ、街道の一つ南側を通る道路に出たあたりから北側を振り返ったところ。この付近は「幻の河岸段丘」による南北方向の高低差がほとんど見られません(奥に見える交差点の手前に若干の傾斜がある程度)。

緩やかな下り坂②

ただ、この場所から西側に向かっても道が緩やかに下っています。興味深いのは、写真右奥あたりで道路が僅かに食い違ったようになっている点です。ここは江戸時代の絵図を見ても明確なクランク状に描かれていて、何らかの入口(虎口?)があったようにも思えるのですが、仙石氏在城時代の城下町図(こちら)では既に周辺一帯が「畠」となっていたようで、特にその価値を見出せません。ということは、このクランク状の道の折れは仙石氏時代より前の、つまりは真田氏時代に設けられた何らかの遺構である可能性が高そうなんですよね。

 

街道探究⑩

撮影場所:上の場所から少しだけ東側に移動しました。ここで気になるのは、中央奥の交差点付近に見られる謎の隆起。なぜかあの部分だけ盛り上がっているんです。

謎の隆起

もう少しだけ近寄ってみました。交差点の向こう側(東側)では再び道路が下っています。

交差点の南側

交差点の南側は広堀(現在の野球場となっている場所)に向かって緩やかに下っています。

交差点の北側

交差点の北側を見ると、先ほどの場所と同様に南北方向の高低差はほとんど見られません。謎の隆起も合わせて考えると、上田城の北側においてはこの付近が最も平坦性の高い土地と言えるかもしれませんね。では、その理由とはいったい何なのか…それが最大の難問です。

 

街道探究⑪撮影場所:考察は後回しにして、もう少し先に進んでみましょう。このあたりに来ると再び南北方向に高低差が見られるようになります。お城により近い場所なのに、先ほどの場所よりも高低差が目立つ状態のままというのはなんとも不可解です。

 

 

街道探究⑫撮影場所:上田城の北虎口から道路に出たあたりです。奥に向かって緩やかな上り坂となっているのは、おそらく「幻の河岸段丘」が左手前から右奥に向かって道路を斜めに横切っていることが原因かと思われます。また、さらに向こう側に見える信号付近で土地が落ち込んでいるのは旧矢出沢川の谷地形によるものでしょう。

 

 

上田城の北側を再考察してみる

それでは上記のを観察することで気付いた微細な土地の高低差に街道探究での成果も加味し、真田氏時代の上田城北側の様子を妄想分多めに再考察してみることとしましょう。

平坦性が高い場所①以前からも述べているように、私は上田城の北側には「幻の河岸段丘」が存在したと考えています。しかし、特定の場所ではなぜかその段差が明瞭ではなく、南北方向の平坦性が高い土地が見られることもまた事実。これに対しては「城内よりも城外の土地の方が高いという状態を嫌い、土砂などで嵩上げをして高低差の解消を図ったのでないか」という仮説で対応してみたものの、その高低差の解消が図られている場所が必ずしも一様ではないことが次の謎となっていました。今回の街道探究では、この平坦性の高い場所が見られる範囲や分布を再検証してみることも目的の一つとしていたのですが、その結果として上図に黄色く示したあたりに平坦性の高い場所が集中していることを確認できました。これを拡大してみると…

平坦性が高い場所②このようになります。青い矢印は緩やかな下り坂を示しており、平坦性の高い場所はほんの限られた範囲内のみに集中していることが分かりました。そして、今回の観察で新たに発見した点としては、その中の一部分に謎の隆起のようなものが存在していたということです。
さて、これらはいったい何を意味しているのでしょうか?まず最初に頭に思い浮かんだのは「これは築城当初の大手門の遺構なのではないか」という仮説でした。上田城は対上杉の城として築城が開始された経緯がありますから、当初の城正面は北側、厳密に言えば北西側であったと思われます。よって、その方角に大手が開かれたとしても不思議ではありません。

大手門?①もし東山道が下須波橋のあたりで矢出沢川を渡っていたとすれば、ここが城の玄関口として適切な立地であったようにも見えます。仙石氏が復興した上田城にこの遺構が確認できない理由としては、関ヶ原後の破却でかなり念入りに壊されてしまったこと(その土砂の厚みが平坦な土地となって現在でも残っている…とか?)、また既に城正面が東側へと変更されてしまっていたために、北側があまり重要視されなかったことなどが考えられるでしょうか。

大手門?②ただこの大手門説、部分的に見るとなかなか良い感じに思えるのだけど、城域全体で見るとやや西側に寄りすぎていてバランスが良くありません。これは私の勝手な憶測なのですが、真田氏は上田城の弱点が城の西側であると考えていた節があるようにも思えるんですよね。広大な水堀と河岸段丘に守られた堅固な構えという印象は受けるものの、一旦ここに敵方の侵入を許してしまうと、その守りの堅さが逆に仇となり、反撃の手段が限られて防戦一方になってしまう危険性が高そうだからです。お得意の用兵術が封じられてしまう場所、とでも言うべきか…。だからこそ、街道もわざわざ矢出沢川の西側に移したのかもしれませんし。

というわけで、この大手門説はあまり良案ではなさそうな気がするため、別の仮説も考えてみました。それは「大手門などではなく、単に普通の土塁の遺構なのでは?」というもの。

土塁?これは平坦性が高い場所に対する理由説明としては少し弱い気もするのだけど、の場所で見られた謎の隆起がなんとなく土塁の遺構のようにも見えたことが発想のきっかけとなっています。この仮説での大手は先ほどとは逆に東側に寄って開かれていたと考えてみました。その根拠は天正年間上田古図に描かれた城の北側の様子に忠実に従ったというものですが、もう一つの着想としては、上図に示したようにこの部分だけが「幻の河岸段丘」の上段部に位置しているため、城内と城外で高低差が生じずに体裁が良い、という点も挙げられるかと思います。また、でも触れたクランク状の道の折れを参考に、虎口も妄想してみました。

こうして見ると、「幻の河岸段丘」と蛭沢川(真田氏時代の総構え)が一致するあたりから西側に平坦性の高い場所が集中していますから、これはやはり段丘によって生じた高低差の解消を最大の目的として土地の嵩上げが行われたのではないかという印象が強くなります。それが限られた範囲のみだったは、せめて蛭沢川沿いの土地だけでも、という最低限の造成で済まされたからでしょうし、真田氏もまたこれで十分だと考えていたのかもしれません。

 

真田氏時代の上田城復元案+

そんなこんなで出来上がったのが上掲の「真田氏時代の上田城復元案+」です。築城当初の姿ではないため、大手は既に城の東側へと移動されていますが、蛭沢川沿いの北側の虎口がそのまま最初の大手と考えて良いでしょう(虎口の具体的な形状は根拠がないため再現していません)。また、外郭北西の水堀と蛭沢川に挟まれた部分には東西を区切る2本の土塁が設けられており、城西側からの敵方の攻撃に備えていたのではないかとも考えてみました。

「平坦性の高い場所」「謎の隆起」「クランク状の道の折れ」といったあまりに微細すぎる観察結果が根拠となってはいるものの、それでもこれだけの妄想が膨らんでしまうのだから面白いものですよね。また何か新しい発見や着想を得て、この復元案をより充実させていくことが出来ればいいな、と楽しみにしております(まぁ、あくまで妄想なんですけどね)。

 

…というわけで、今回はここまで。長々とお付き合い頂きどうもありがとうございました!

 

城郭研究

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