真田氏時代の上田城考/その④

通説に対する疑問点

真田氏時代の上田城の姿を考えるためには、そもそも城が築かれる以前、その場所がどんな地形だったのかにまで遡って、再検討してみる必要があると思います。それにはまず、私がその①でも述べた通説に対し、以前から感じていたある疑問を解決しなければなりません。

 

話を始める前に、私がここで使用する図面について簡単に説明しておきます。

江戸時代中期頃の上田城上図は私のオリジナルで、『定本 信州上田城』に掲載されていた「上田城下町復元図」、「上田城中核部実測復元図」、江戸時代に描かれた絵図、新旧の航空写真、Google Earth、地理院サイトの地形図(こちらで見られます。これ、地形の凹凸マニアには堪らないものがありますね…)等を参考にして作りました。実際の地図と重ねると、あちらこちらで歪んでいたりずれていたりもしますが、素人が趣味の範囲内で作成したもの、ということでどうかご理解下さい。時代も「江戸時代中期頃」ということで具体的な年代は特定していません。

 

それでは、これから私の真田氏時代の上田城に対する自説を展開してみようかと思います。

まず、通説への疑問点から話は始まります。

通説に対する疑問①かつて、上田城の二の丸東北部付近では矢出沢川と蛭沢川が合流しており、そこから西側へ向かって広い谷状の地形を形成していたと言われています。

 

通説に対する疑問②上田城を築城するに当たり、この谷を堤で堰き止めることによって、東から百間堀、広堀、捨堀(溜池/蓮池とも。以降は「捨堀」で統一)という広大な水堀が生み出されたのだと。

非常に簡潔で分かり易い。ですが、そのもともとあった「広い谷地形」というのが、私にはどうにも納得がいかない部分なんです。もちろん、長い年月を経れば流水の浸食により谷も出来るでしょうし、流路の変遷でそれが広がったりもするでしょう。しかし、その谷がなぜ蛭沢川との合流点から始まっているのか?という部分が私には不思議であり、疑問でした。

両河川とも、合流をする前まではそれほど大きな谷地形を形成していた様子はありません。水量だって、現状から考えれば二つの河川が合流したからといって劇的な増加があったとも思えないですしね。むろん、かつては今よりずっと水量が豊富だったのかもしれませんが、それならばなおさら、合流以前から谷地形を形成していたとしてもおかしくないわけで…。

それぞれ単独の水量では大きな谷地形を形成できるラインにぎりぎり足りなかったものが、合流することによりそのラインを超えた…とか?あるいは合流の云々以前に、上田城付近で地盤が水に侵食され易い質に変化している…とか?いろいろと可能性は考えられるものの、いま一つしっくり来るものがありません。

そもそも、その「広い谷地形」とは具体的にどれくらいの幅があったのでしょうか。それを探ってみようとすると、あまりにも予想外の結果が出てしまい、それが頭を混乱させる原因となって、また思考が振り出しに戻ることになるのです。

 

通説に対する疑問③上田城二の丸北側の水堀とその周辺について、最大幅ではなく、最小幅に注目してみたのが上の図です。この水堀、幅が広い場所はものすごく広いのですが、一方で意外と狭い部分も何ヶ所か存在しており、それは堀とはならなかった更に西側の谷部分にも見受けられます。

 

通説に対する疑問④赤い丸印をつけた幅の狭い部分を結んでみると、上のような谷筋が浮かび上がってきます。もしこれがもともとの谷幅であったならば、あまりの想定外の狭さに愕然とさせられます。

 

通説に対する疑問⑤いや、こんな感じで川が蛇行していたんだよ、きっと!とか、

 

通説に対する疑問⑥いやいや、こんな風に沼や湿地帯だったんじゃない?とか、

まあ、仮説はいろいろと立てられますが、上で示した谷幅の狭い部分の赤丸が、あまりにも自然に流麗な線で結び付いてしまうのを見てしまうと、また、二つの河川が合流したからといって突然に幅の広い谷地形が出現していることへの不自然さを加味すると、実のところ、こんな規模の谷だったのでは?とも思えてきます。

 

通説に対する疑問⑦谷の狭い部分といえば、もう一つ疑問に思う点があります。堀外となった西側の地形をよく見ると、上のように「A」や「B」といった、狭い部分が他にもあるのに、どうして「C」の部分で谷を堰き止めたのでしょう。仮に「A」の部分に堤を築いていたなら、更に広大な水堀が出現していたはずですからね。もちろん、無駄に城域を広げるのは、限られた兵力で城を守らなければならない地方の城郭にとっては愚策なのかもしれませんが、かといって、これがそれほど守備負担を増やす結果になるとも思えないんですけどねぇ…。

 

通説に対する疑問⑧さて、実際の谷の幅が狭かったのならばそれはそれで個人的に納得なのですが、そうなると「自然の地形を活用して効率的に巨大な堀を生み出した天才」という子供の頃から私の中にある真田昌幸像がガラガラと崩れ落ちて、あの広大な水堀も「もともとあった細い谷を掘り広げ、数倍の幅にまで拡幅しただけ」の、つまらない存在ということになってしまいます。

ただ、簡単に「掘り広げ、拡幅しただけ」とは言っていますが、実際の堀跡を目にすると、それもまた素直には信じられない話であることが実感できると思います。

 

百間掘跡
百間堀跡の陸上競技場。深さはそれほどでもないですが、幅は十分に広いです
広堀跡
広堀跡の野球場。サッカーしてますが。外野の奥の相撲場(左の鉄骨の建物)付近まで堀でした
捨堀跡
捨堀跡の上田高校第二グラウンド。ちょうどサッカーコート一面分くらいの広さがあります

これら全部を掘り広げて作った、というのにも無理があるような気がします。1つだけならまだしも、3つもあるんですからね。そんな暇があったら、城のもっと別な部分を強化した方がよっぽど得策のようにも思われますし。

結局、

「谷幅はそんなに広かったのか?」→「案外狭かったのかも」→「狭い谷をあんな広い堀に拡幅したのか?」→「それもちょっとありえない」→「やはり谷幅はそれなりに広かったのかも?あるいは第三の可能性が!?」と思考の堂々巡りに陥り、いつも答えは出ないまま。

 

この谷の幅についての違和感や矛盾は、上田城の成り立ちについて考えてみたことのある人なら誰もが共通して抱く疑問なのかもしれません。前回ご紹介した復元案でも、二の丸北側の水堀については、なるべく元の谷筋の形状を意識しつつ、幅を広げ過ぎないようにという工夫の跡が感じられましたから(そういう点も含め、非常に誠実な復元案だと思います)。

 

私がこの思考の堂々巡りから抜け出すことが出来たのは、とある場所への着目からでした。

 

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