真田氏時代の上田城考/その⑩(最終回)

復元案解説(後編)

その⑦でご紹介した「真田氏時代の上田城復元案」の解説、後編です。前回も述べたように今回はちょっと妄想分が多めですので「着眼点の一つ」くらいに捉えて頂いて構いません。

 

不思議な類似性

私の示した復元案は基本的に「天正年間上田古図」と「元和年間上田城図」を最大限に尊重していますが、実はそれ以外にもう一つ、参考にしたものがあります。それは絵図ではなく実在の城、それも真田昌幸が上田城を築城する2年前に手掛けたとされる「新府城」です。

ご存じのように、新府城は武田勝頼が旧来の躑躅ヶ崎館に替わる新たな本拠として築いた城で、その普請奉行を任されたのが真田昌幸と言われています(確実な証拠がないために異論もあるようですが、中心的な役割を果たしていたことは事実でしょう)。残念ながら完成を待たずして織田軍の侵攻を前に放棄され、天正壬午の乱において徳川軍に一時的に使用されたりはしたものの、その後は人知れず歴史の中に埋もれてしまった悲運の城でもあります。

武田氏滅亡を象徴するような存在であり、未完成のままに打ち捨てられたという経緯からも一般的には過小評価されがちな城なのですが、私は武田氏による壮大な構想の下に築かれた未完の大城郭、言うなれば「幻の名城」とも呼ぶべき素晴らしい城だったと考えています。
これについては改めて「新府城考」として詳述する予定のため、今回は軽く触れる程度で。

新府城跡概要図

これは新府城跡の本丸にある解説板に描かれた城の概要図。新府城は七里岩と呼ばれる断崖に接した小山に築かれた平山城で、山頂部分に本丸が置かれ、その西隣に二の丸が、南側の中腹部には三の丸が配され、北~北東面にかけては水堀も設けられていました。一見すると平城である上田城とは崖に面した立地という点以外に共通性はなさそうにも思えますよね。

 

上田城と比較しやすいように画像を180度回転しましょう。画面左方向が北となります。

新府城復元案(仮)

解説板の画像を使うわけにもいきませんので、ここからは私の考える復元案で説明します。
これを作るにあたっては『新府城と武田勝頼』及び『新府城の歴史学』(新人物往来社)に掲載された図面、終戦直後の航空写真、絵図、その他の地形図等を参考にしました。細かい部分に独自の解釈を加えていますので、城好きの方には楽しんで頂けるのではないかと…。
「仮」としてある理由は、今後にネタを温存するため一部を通説に合わせているからです。

 

それでは、まず外郭部分から見てみましょう。

崖と水堀

新府城の西側はものすごい断崖になっています。その高さたるや上田城の比ではなく、城の麓付近で約60m、主郭部のある山上では約100mにも達します。ほぼ垂直に近い絶壁でこちら側から攻撃を受ける心配はないでしょう。また、城の北側から東側にかけては水堀が設けられていたようです。舌状台地上の先端部近くという立地のために水の確保には苦労をしたらしく、実際にどの程度の規模の水堀であったかは不明ですが、構造としては堤で水を堰き止めるダム湖のような造りになっていたことが分かります。これは上図に示したように城の築かれた小山周辺の土地が北から南に向かって傾斜しているのが原因かと思われます。

平面図では説明が難しいので、写真をご覧下さい。

堤を見上げる

上図の緑の矢印の方向を撮った写真です。奥に見える堤がとても高く感じられますが、あの土塁の上面が城北側の平野部の標高とほぼ同じレベルなのであり、そこから手前に向かって土地が徐々に下がって来ています。ところで、その奥に見える堤とよく似たものをどこかで見た記憶が…。そう、その⑥でもご紹介した上田城西端部にある堤を谷底から見上げた時とそっくりなのです。どちらも水を堰き止めるダム的な機能を持つ点でも共通していますし。

上田城西端部の土塁
上田城の西端部にある堤の役割を持つ土塁。外観も与えられた機能もよく似ています
南側の傾斜地
緑の矢印とは反対の方向を見たもの。南側へ向かって土地が下がっていくのが分かります

新府城と上田城、水堀の規模こそ全く違いますが、堤を築いて水を堰き止めるという構造はどちらも同じです。真田昌幸はこの新府城で得た経験をもとに、あの上田城の広大な水堀を生み出したのかもしれませんね。豊富な水と谷地形がある土地でより大胆に、より自在に。

 

次は虎口の場所です。

虎口の場所

新府城には主に4つの虎口があったと考えられています。城の大手とされる、その西側にあるやや小規模な、東側の水堀を渡る、そして北側の断崖に寄せて設けられたです。

は、その丸馬出しと枡形を組み合わせた構造や規模から新府城の大手虎口であったと考えられています。ただ、山の中腹部という中途半端な場所に位置することや、そこへ至る道筋が明瞭ではないこと、また発掘調査から建造物の遺構が全く出なかったことなどからこれを疑問視する声もあります。実は私もここを大手だとするのには懐疑的な一人なのですが…。

は、1の丸馬出しからは死角になる場所に設けられた目立たない虎口で、丸馬出しを攻撃する敵に側面から伏兵を出すための虎口、などと説明されたものを見たことがありますが、これの本来の目的は崖下へと通じる道を押さえるためのものでしょう。信じられないことにこの虎口のすぐ下には崖の側面を伝って行き来できる道が存在したようで(現代の地図にも描かれていたりしますが、どうやら今は通行止めのようですね。少し南側には新しい車道もありますし…)、ここを登ってくる敵に備えたものと考えられます。虎口と崖道の間にある小規模な郭もそのためのものかと。もちろん前述の伏兵を出す機能もあったのでしょうが。

は、先ほどの写真を撮った場所です。水堀を渡って入る虎口であり、その土橋が堤の役割も兼ねています。地形的にも城の北面と南側の傾斜地とを分ける重要な場所に当たります。

は、断崖ぎりぎりの場所に設けられた馬出し状の虎口です。城の敵正面は北側であったと考えられますので、特に堅い守りが求められたのでしょう。この狭い虎口を大勢で攻めるのは難しく、しかも一歩間違えれば崖下へと転落してしまう危険性も非常に高いですからね。

虎口脇の崖
4の虎口脇の崖。足下に人家が見えるというこの恐ろしさ!ここを渡って城内に入ります

 

 

さて、以上を踏まえて私の「真田氏時代の上田城復元案」を比較してみましょう。

上田城復元案との比較①

崖と水堀の規模がお互い正反対ではあるものの、城の一面を崖が、別の二面をダム状に堰き止めた水堀が守っているという点は同じです(上田城は残り一面にも水堀がありますが)。
虎口の配置にも類似性があり、意図的に似せたは除くとして、大手虎口と考えられる、やや小規模で崖下への通路を監視する役割も果たす、水堀を渡るについてはほぼ同じ。

復元案のの虎口に関しては、「天正年間上田古図」や「元和年間上田城図」からは情報が全く得られない部分のため、上記の類似性からも鑑みて新府城の北側の虎口の場所や形状を参考にしてみました。やや簡略化してあるのは、地形や立地の重要度を考慮した結果です。

実は同じように新府城に倣っての虎口の前面に丸馬出しを加えようかと悩んだのですが、どうにも収まりが悪いので諦めました。ただ、その考察の延長線上に大手筋の独特な形状の虎口が思い浮かんだのですから、無駄な妄想ではなかったのだと考えることにしています。

 

内郭部分の共通性

次に、城の内郭部分を見てみましょう。

新府城の内郭部

新府城は小山の頂上部分に本丸が置かれ、その西側(崖側)に少し下がった場所に二の丸、南側の中腹に三の丸が配されていました。面白いのが三の丸の構造で、中央部分を一直線に土塁が横切ることにより「東三の丸」と「西三の丸」の2つの郭に分けられている点です。これは地形図でもはっきり確認できるくらい特徴的な縄張りで(こちらをご参照下さい)、個人的には新府城でも一番の見所ではないかと思うほど独創的な仕掛けだと考えています。

その私が考える三の丸の機能を説明する前に、再び上田城の復元案を比較してみましょう。

上田城復元案との比較②

平山城と平城の構造を単純比較するのは難しいですが、上田城の復元案に新府城の縄張りを対応させると上図のようになります。上田城の本丸は上下二段に分かれており、尼ヶ淵の崖に近い側が一段低くなっています。新府城の本丸と二の丸の関係に比べるとさすがに窮屈な印象は受けるものの、機能的には似たような役割が与えられていたのではないでしょうか。

新府城の2つに分けられた三の丸は、上田城では二の丸東側の水堀で南北に分けられた部分に相当します(ここでは便宜上「二の丸A」「二の丸B」と呼ぶことにします)。ちょっと無理矢理な感じというか、こじつけのようにも思われるかもしれませんが、重要なのは外観ではなくてその機能的な部分です。新府城の「東三の丸」と上田城の「二の丸A」、同じく「西三の丸」と「二の丸B」が持つ戦術的な役割に共通性があると私は考えているのです。

それでは、新府城の2つの三の丸が持つ戦術的な役割とはなんなのでしょう?

 

新府城の防御

私は新府城は徹底的に軍事的な城であったと考えます。縄張りの面でも全てが戦術面を優先して築かれたはずで、三の丸を区切る土塁も防御上の意図があってのものだと思うのです。

新府城の斜面

新府城を構成している小山の斜面を「急斜面」と「緩斜面」に分けると、上図のようになります。北面と東面は麓から山頂部の本丸まで急傾斜が続くため非常に守りが堅いのですが、問題は北西と南東~南面にある緩斜面です。北西部については、まだ水堀と虎口に守られた内側にあるから良いものの(弱点であることは確かですけど)、南東~南面はそのまま緩い斜面が外部に剥き出しに近い状態になっています。現地でこの部分を実際に見て感じるのは「城の守りとして本当にこれで大丈夫なのか?」という不安。それほど斜面が緩いんです。

南面を攻められる

いくら城の敵正面が北側だからといっても、攻城方がこの弱点を見逃すはずはありません。なんとしてでも城の南方に回り込み、こちらから攻撃を仕掛けたいと思うはずです。では、それに対する守備方の新府城の対処法は如何なるものだったのでしょう?築城時からここが弱点となることは十分に理解していたはずですし、それへの対策も施していたと思われますから、城の南側、つまりは三の丸周辺には敵の侵入に対する防御の仕掛けが張り巡らされていた、という前提で考察を進めるべきでしょう(新府城の縄張りについては、すぐ「未完成だったから」として考慮を打ち切ってしまいがちですが、それは「逃げ」だと思います)。

城の南側の斜面には立派な丸馬出しが設けられています。枡形を伴った厳重な虎口のため、ここを突破するのはなかなか難しそうですよね。しかし守りが堅いのは虎口周辺部だけで、少し脇に目を向けると、南東の側面部や崖側の虎口付近など、攻撃を集中すれば破れそうな箇所があるのが分かるはずです。緩斜面のため横移動が自由なのも攻城方には有利ですし。

 

敵方に虎口を突破されて城内への侵入を許しました!…さて、どうなるでしょう?

敵の侵入コース

城内に入った敵兵は、悉くが吸い込まれるように東三の丸へと誘導されます。もちろん途中にはといった正規ルートへの分岐もあるのですが、のコースは急斜面を登る必要がある上に本丸から激しい攻撃に晒されて必死のため存在を知っていてもこれを避けますし、逆にのコースの場合は分岐地点が分かりにくいように工夫されているため、事前の知識がなければ崖際の虎口から侵入した敵兵でさえ横を素通りしてしまう可能性が高いでしょう。

さて、わざわざ誘導するくらいですから、迎え撃つ備えも万全に整えられていたはずです。

東三の丸の防御

東三の丸はいわゆる「キルゾーン」であったと私は考えます。導かれるようにこの郭に侵入して来た敵兵はからの強烈な十字砲火を浴びることになります。特に本丸がある北側のは二段構えになっているため鉄壁です。その横のの部分は斜面を削り込んで設けられていますが、これは射撃陣地や伏兵を置く等の目的とは別に、敵兵がの竪土塁の脇を登って来られないようにするための対処だったと思われます。なんとかを破って本丸への斜面を登ったとしても、そこには細かく小郭を連ねた、その更に上には本丸土塁のが多重に待ち構えており容易ではありません。またを破ったとしても、それは斜面の横移動にしかならないんですね。キルゾーンの突破は大きな前進には違いないのですけど。

つまりの土塁は三の丸を分割するためというよりは、そしての竪土塁と連携してこの東三の丸を完全なる閉塞空間にするための装置の一部だったと私は考えるのです。この郭に誘い込まれた攻城兵は弓矢・鉄砲の格好の標的となり、先に進む道もなく、戻ろうにも後続の兵に阻まれて退くことさえ出来ず、無駄に犠牲を増やす結果に終わるでしょう。

このような目的のため、東三の丸内にはほとんど建造物は設けられなかったのではないかと思います。射撃の妨げにしかなりませんからね。実際、発掘調査でも郭の南側からしか建物の遺構は出なかったと聞きます。かなり広い郭なので、平和な時代が訪れた際には屋敷地にする計画もあったのかもしれませんけど(結末を知っているだけに虚しい仮説ですが…)。

他にもいろいろと語りたいことはあるのですが、それはいずれ書く予定の「新府城考」で。

 

上田城の防御

翻って上田城です。

新府城の「東三の丸」と上田城の「二の丸A」には戦術的な役割として共通性が見られる、と前述しました。どういうことなのでしょう?それを説明するためには、上田城についても新府城と同じように攻城戦における敵兵の侵入経路から考えてみる必要があると思います。

私が復元案で示す真田氏時代の上田城は、ほぼ完成期のものです。ですから新府城のように目立った弱点というものはありません。ただ、二度の上田合戦がそうであったように、この城を攻めるなら崖も大水堀もない平地の開けた東側から、というのが基本になるでしょう。

上田城の防御①

「一」:とはいえ、完成された上田城の守りはなかなか強力です。AとCの2つの単郭状の屋敷が出郭として機能し、その間に設けられたBの虎口が行く手を阻みます。北面へと回り込もうとしてもAとBからの追撃は止まず、それより西側には広大な水堀があって小舟でも用意しないことには渡ることすら出来ません(北側の虎口の木橋は既に外されています)。

上田城の防御②

「二」:強引にBの虎口を突破しても、今度はDの屋敷地に加え城内のEからも攻撃が…。

上田城の防御③

「三」:ようやく二の丸の大手虎口まで辿り着いたとしても、正面のE、側面のD、更には背面のAからも標的にされてしまうのですから、さすがの攻城方も参ってしまうでしょう。

しかし、です。実戦における守りでは「一」⇒「二」⇒「三」という順番にはなりません。敵方だって馬鹿ではありませんから、城方が「一」のような形で万全の状態に守りを固めていれば無理に攻め込むようなことはしないでしょうし、結果的にお互いが距離を保ったまま戦局は膠着状態に陥ります。これは城方にとっても敵方を叩く機会を自ら失していることになるわけで、望んだ展開ではないはずです。なんとかしてこのゾーンに敵を誘い込めれば…

ここで登場するのが、ご存じ真田氏お得意の用兵術。敗退すると見せかけては敵兵を巧みに城下へ引き入れ、更にじわじわ後退して最終的には城内への侵入までも許してしまいます。もちろんこの間A~Eは沈黙を守ります。最初は罠かと疑って慎重だった敵方も、城内まで侵入できるに至っては調子に乗って怒涛の攻撃態勢に移ります。その侵入した場所こそが…

二の丸A

「二の丸A」というわけです。ここに雪崩れ込んできた敵兵に対し、待ち構えていた城兵が集中砲火を浴びせます。新府城の東三の丸ほどではないにしろ、ここも一種の閉塞空間ですから、行き場を失った攻城方の先頭部に滞留が生まれます。この先頭部の滞留が後続に波及することで、怒涛の攻撃態勢に入った敵軍には大渋滞が発生します。その発生箇所こそ…

上田城のキルゾーン

緑色の部分、つまりは「一」~「三」で示した上田城における「キルゾーン」というわけ。この状況に至って初めてA~Dが沈黙を破ります。そして「三」⇒「二」⇒「一」の順番で敵兵を追い討ちして大打撃を与える仕掛けになっていたと考えられます。いかがでしょう、新府城の東三の丸と共通性があるようには思えませんか?まあ、ここまでの懐の深さがない(敵を追い討ちする仕掛けが構築されていない)のが新府城の弱みでもあるのですけれど。

これは寡兵で大軍勢を叩く際の理想的な戦術のように思われます。いくら堅城とはいっても兵力数に物を言わせた相手に冷静に防御力を削られたら成す術がありません。そこであえて危険を冒し、城内まで敵兵を招き入れるのです。攻城方にとっての最終目的は本丸を落とすことですから、抵抗もなく城内に入れる以上、周囲の郭(A、C、D)などには目もくれず前方へと突進するでしょう(それだけ夢中な状態にさせることが肝心ですが)。これこそが城方の計略なのであり、自分たちにとって最も有利な場所、つまり最小限の兵力で最大限の効果を発揮できる閉塞空間に敵兵を誘導する罠なのです。リスキーな戦法には違いないですが、いわゆる「肉を切らせて骨を断つ」の言葉の通り、成功した場合の敵に与えるダメージの大きさは計り知れません。この二の丸Aでの攻防はあくまで反撃の端緒であって、本来の目的は巣穴の奥深くまで入って身動きの取れなくなった敵軍全体を叩くことなのですから。

ところで、先ほどの「一」~「三」において大活躍を見せていたのが「A」の屋敷地です。四方向の全てに睨みを利かせていますが、特に大手虎口を背後から守っているのが効果的。上田城を攻略するには、まずこのAを黙らせる必要があるでしょう。ただ、占拠しようにも城からの距離が近すぎ、下手をすると孤立させられる可能性もあるのが難しいところです。城方もそれに備えてあえて食料や物資を置かず、ひょっとすると建造物も最小限のものしか建てなかったかもしれませんね。思いのほか重要な役割を果たした屋敷地だったようです。

 

最後に新府城の「西三の丸」と上田城の「二の丸B」の関係性についても少しだけ。

西三の丸

東三の丸が閉塞空間なのに対して、西三の丸には二の丸を経て本丸へ至る道筋が郭内を通過していたと思われます。この道筋は西三の丸と断崖との間に挟まれた小郭を通る必要があるため、上からこの小郭を押さえ込んでいる限りは敵兵は西三の丸の内部へと侵入することが出来ませんし、当然ながらそれより先にある二の丸、本丸にも辿り着くことも出来ません。東三の丸が「敵を叩く」郭だとすると、西三の丸は「道を押さえる」郭と言えるでしょう。

二の丸B

上田城の二の丸Bも「道を押さえる」郭です。二の丸Aへの射撃陣地として機能しますし、崖際の虎口前面を守りつつ、その虎口との間にある小郭を押さえる役割も果たしています。特に上図の場合は、二の丸Aとの間に架かる木橋を外して連絡を絶っているため、なおさら西三の丸との共通性が際立っているようにも見えますね。ただ前回も述べましたが、本丸と二の丸Bについては躑躅ヶ崎館の影響も大きそうな部分なので、なかなか難しい問題です。

本丸補足:図の赤い部分は、新府城の「蔀の構(しとみのかまえ)」を参考にしたもの。
本丸補足その⑥でも述べたように、オレンジの部分には城外への出入口があったかも?

以上が私の「真田氏時代の上田城復元案」と「新府城」の比較検討になります。どうしてもこじつけた感は否めませんが、城全体のプランとして似ている部分があるという印象を以前から感じていたことも事実なので、自分なりにその共通性について分析してみた次第です。

 

新府城の築城に深く関わったとされる真田昌幸。限られた条件の中で、持てる知恵の全てを振り絞って築いたであろう城郭が、未完成であるが故にほとんど使用されることもなく放棄される結果となり、挙句の果ての武田家の滅亡。言い知れぬ無念さがあったと思われます。
その直後の自らの上田城築城にあたり、新府城で用いたプランを再現しょうとしたとしても不思議ではありません。裏を返せば、それだけ新府城の縄張りには自信があったということにもなります。実際、分析すればするほど新府城の縄張りには唸らせられる部分が多くて、考え抜かれた構造であったことを知ることが出来ます。もし計画通りに城が完成し、それを守る十分な城兵が集まり、真田昌幸が戦略を駆使するような状況になっていれば…。ただ、そうなると後の真田家と上田城は存在しないことになりますから、なんとも複雑ですよね。

 

最後に

今回で真田氏時代の上田城についての考察は終わりです。子供の頃から絵図などを眺めては頭の中であれやこれやと想像を巡らせてきたことを書いてみましたが、とりとめもない上に話があちこちに飛ぶので、分かり難かったら申し訳ありません(構成力がないもので…)。

文章はともかく、復元案の図面などはそれなりに細部まで工夫を凝らしてみたつもりなので城好きの方には楽しんで頂けたのではないかと思います。もっと具体的な復元案(櫓・城門の明示、城内の建物の配置等)を期待されたかもしれませんが、個人的に根拠のない部分を想像だけで埋めていくのは苦手、というかあまり好きではありませんので、大枠の縄張りのラインを示すに止めました。もちろん妄想ではいろいろな姿が浮かんではくるのですが…。

私の示した「真田氏時代の上田城復元案」は、あくまでも一つの例に過ぎません。自分でもこれが絶対だとは全く思っていませんし、これ以上に優れた案があるのであればそれを支持するでしょう。ただ、見方によってはこのような考察も出来る、という着眼点としての参考にして頂けるのなら嬉しいですね。上田城の人気や知名度は、私が子供の頃とは比較にならないほど高くなりました。しかし、「城郭」として上田城をより深く探求するような記事はまだまだ少ないのが現状です。もっといろんな種類の復元案が出てくるような状況になれば面白いでしょうし、またそんな状況になることを願っています。上田城、大好きですので!

 

それでは長々と失礼しました。お読み頂きありがとうございます。

 

補稿を追加しましたのでよろしければこちらからどうぞ。

参考文献:『新府城と武田勝頼』(新人物往来社)
『新府城の歴史学』(新人物往来社)

2件のコメント

  1. こんにちは!数多の考察、とても感服しながら拝見させていただきました。
    つきましては私、YouTubeで色々な城をMinecraftという
    ソフトで中世の古城を再現する動画を出させていただいているのですが
    近日投稿する真田氏上田城の動画にてこちらの資料を引用させていただきたいのですがよろしいでしょうか。
    何卒、よろしくおねがいします

    1. でずまつ様

      コメントを頂きありがとうございます。
      専門家ではない素人の妄想レベルのお話ではありますが、
      何らかのご参考になる点があったのであれば嬉しい限りです。

      引用の件については、全く問題ありませんのでご自由にどうぞ。
      動画の完成を楽しみに待たせて頂きたいと思います!

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