特徴的な天守の上がった城
久しぶりの淀城
淀城は、私の住む京都市街から電車で約20分ほどの距離にある最も身近な近世城郭の一つなのですが、同じ市内にある荘厳華麗な二条城などに比べると、どうしても影が薄い存在であることは確かです。かく言う私もかれこれ10年近く足を運んでいないことに最近気付きまして、お城好きの人間としてこれはいかがなものかと思い、久々に出かけてみることに。
京阪電車で到着してまず驚いたのは、淀駅が非常に立派な高架駅になっていたこと。普段は阪急電車を使うことが多く京阪も中書島駅あたりまでしか利用しないため、これは全く知りませんでした。かつての淀駅といえば線路が淀城の本丸水掘の南東角を斜めに横切って敷設されており、出町柳駅方面行ホームの背後の窓からは天守台の石垣が目の前に見えるという非常に特殊な立地だったのですが、新しい駅舎はやや東寄りに移動して、すぐ南に隣接する淀競馬場とも直接デッキで結ばれる構造になったようです(JRAの出資も大きいとか)。
天守台の事情
地上駅時代にホームのあった場所は、現在では高架橋下の駐輪場や駐車場となっています。
遮るものがなくなって見やすくなったのかと思いきや、手前にはフェンスが…。これは何?
天守台の角部分には近寄れるものの、ここにもフェンスがあるため頭上でカメラをパチリ。
石垣の角石は算木積みが非常に整っていて見事。ただ、側面の石垣石の大きさはやや小粒な気もします。廃城となった伏見城の石材を運んできて再利用したとも言われるようですね。
天守台の東面は直接水堀へは落ち込まず、下部に幅5mほどの犬走りが設けられています。
この場所以外では見られない構造であり、その目的も不明。地盤が弱かったのでしょうか?
あいにくの雨模様。淀城の遺構はごく僅かしか残されていませんが、この本丸の南面だけは旧状をよく留めています。左奥の石垣が新しく見えるため、修復が行われたのでしょうね。
さて、この淀城の天守台には非常に特徴的な天守が上がっていたことでもよく知られます。
と言っても、建物自体の形状のことではなく、周囲の櫓との配置関係が特殊だったのです。
百聞は一見にしかず、当時の天守の姿を描いた絵図が残されているのでご覧頂きましょう。
あまりに個性的な櫓配置のため、絵師さんもその立体処理にはかなり苦労されたご様子。
どうなっているのか説明しますと、天守台の外周を取り囲むように多門櫓が巡らされ、四隅には二重の隅櫓が石垣から張り出す形で建てられていました。そしてその中央部に五層五階の大天守が聳え立つという前代未聞の超過密天守台だったのです。復元イラストも何種類かありますし、こちらのサイトの復元模型などは視覚的にとても分かりやすいかと思います。
なぜこんな複雑な構造になってしまったのかというと、淀城の築城途中に政治的な理由から突然変更となってしまった、他城からの天守移築計画が大きく影響したと言われています。
複雑な三角関係
もともと、淀城には廃城となった伏見城から天守が移築されてくる予定で、天守台の石垣もその伏見城天守の大きさに合わせて築かれていたそうです。ところが同時期に後水尾天皇の行幸を迎えるための二条城の大幅な拡張工事が計画されたため、伏見城天守の移築先は急遽二条城へと変更されることとなってしまいました。その代替として、淀城には家康が築いた初代の二条城天守(徳川によって築かれた当初の二条城の面積は拡張後の半分程度しかない小規模なもので、家康の建てた天守は現在の二の丸御殿の北西部付近にあったとか)が移築されることになりましたが、困ったことにその規模は伏見城天守と比べて一回りほど小さいものであり、用意していた天守台に乗せると周囲に余白が生じてしまうことが判明、そこで苦肉の策として天守台上に生じる余白のスペースに櫓を並べて体裁を整えたらしいのです。
別にそこまでしなくても、周囲に塀を巡らすとか、天守を石垣の一隅に寄せて建てるなどの対処法はあったかと思われるのですが、徳川が伏見城を廃した替わりに設ける政治的な意味合いの強い城なわけですから、見栄えもそれなりに重視されたということなのでしょうか。
ところで、この淀城、伏見城、二条城の間における天守の移築の歴史を見てみると、まるで何か因縁が存在しているのではないかと思われるほど複雑な関係にあることが分かります。
・淀古城天守 → 指月伏見城天守 → 慶長伏見地震により倒壊(1596年)
最初の淀城天守は、秀吉によって築かれました。この城は現在の淀城とは別の場所にあったもので、便宜上「淀古城」とも呼ばれます。立地的な重要性から、室町時代からこの地には城が築かれ、幾多の争奪戦が繰り返されてきました。山城国守護所が置かれていた場所とも言われます。それを再整備した秀吉はここに茶々(淀殿)を住まわせ、嫡子の鶴松が誕生。しかし鶴松は夭逝してしまい、城主で秀次の家老でもあった木村重茲は秀次事件に連座して切腹、城は廃城となりました。天守を含めた建物は秀吉が隠居城として築いた指月伏見城に移築されたそうですが、文禄5年(1596年)に起きた慶長伏見地震により倒壊しています。
・木幡山伏見城天守(豊臣期) → 伏見城の戦いで焼失(1600年)
秀吉は倒壊した指月伏見城のすぐ北側にある木幡山を中心として伏見城(木幡山伏見城)を再建しますが、完成の翌年にこの城で亡くなってしまいます。その秀吉が再建した伏見城は関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで炎上し、再建された天守も焼失したようです。
・木幡山伏見城天守(徳川期) → 二条城天守(二代目) → 落雷で焼失(1750年)
関ヶ原の戦いの後、伏見城は徳川が二度目の再建をします。この時に建てられた天守こそが淀城に移築される予定だったもの。しかし、上述のように途中で計画が変更となって徳川の再建天守は拡張整備が行われた二条城へ移築されています。伏見城は元和5年(1619年)に廃城となり、淀城や大阪城などにその建物や機能が移されました。「伏見城からの移築」と伝えられる各地の建物は、この徳川の再建した伏見城が廃城になった時のものだそうです。
・大和郡山城天守 → 二条城天守(初代) → 淀城天守 → 落雷で焼失(1756年)
伏見城天守の替わりに淀城へ移築されたのは、家康が建てた初代の二条城天守でした。この初代の二条城天守も、もともと大和郡山城からの移築だったという説が有力なようですね。
二条城天守(二代目)と淀城天守は、どちらも江戸時代中頃に落雷によりわずか6年違いで焼失しています。これもまた政治的理由から運命が交差した天守の因縁なのでしょうか…。
本丸内部
本丸の入り口付近に立つ案内板。稲葉氏が城主であった江戸時代中期~後期頃の淀城の姿が描かれています。桂川、宇治川、木津川という3つの河川の合流点(ここから下流は淀川)に位置しており、「水城」とも呼べるくらいの周辺環境です。水害は大丈夫だったのかな?
立地的には大阪城と似ているでしょうか。縄張りは輪郭式に近く、本丸の東側にある巨大な馬出し形状をした東曲輪の存在が目立ちます。この東曲輪の外側を「コ」の字状に迂回する形で京街道が城内を通過していたそうですが、その街道筋から天守までの距離が異常なほど近いことに驚かされます。大坂の陣後に徳川が築いた城では、街道や河川、港や海などから人々に「見られる」ことを念頭に置いた縄張りが行われているように感じるものが多いため(福山城はその典型例だと思います)、この淀城もまた街道の往来から「見られる」ことを最大限に意識したからこそ、あれほどまでに天守の外観面にこだわったのかもしれません。
城の北側の対岸には「唐人雁木」と呼ばれる大陸から来た使節団(朝鮮通信使)が上陸する舟着場がありました。わざわざこのポイントが選ばれたのも、おそらくは天守を始めとする淀城の雄姿や、川面に立つ大水車などを「見せつける」効果を狙ったものと考えられます。
なお案内板の中央上部、唐人雁木のさらに北側あたりに水路が入り組んだようになっている場所が見られますが、この付近一帯が秀吉の築いた「淀古城」であったと言われています。
国土地理院の航空写真で見る、案内板とほぼ同じ範囲の現在の様子です。淀城が本丸南側の一部しか残っていないことや、川の流路が完全に変わってしまったことなどが分かります。
北東より見る天守台。現在は東側から入るようになっていますが、かつてはここも堀の中。上の案内板の縄張り図のように、本丸の虎口は北側の二の丸方面にしかなかったようです。
東側の入口から本丸方向を見ています。ここはまだ堀の中だった場所で、中央に見える低い石垣が堀と曲輪の境界でしょうか。ただ、縄張り図を見るとこの石垣の上には二の丸が細く回り込んでいて(帯曲輪?)、その奥にもう一段あった石垣の内側が本丸だったようです。
正面は稲葉神社。江戸時代中期~幕末まで最も長い期間にわたり淀藩の藩主を務めた稲葉氏の藩祖である稲葉正成が祭神として祀られています。正成といえば春日局のご主人ですね。私などは子供の頃に見た大河ドラマ『春日局』の印象が強く残っているため、未だに頭の中での配役が<春日局:大原麗子/稲葉正成:山下真司>で固定されたままだったりします。
北側から見た天守台。手前に一段低くなった石垣が設けられています。絵図などを見る限りでは、これは小天守台や付櫓台ではなく、天守台入口を固める控えの曲輪だったようです。その下に並ぶ石碑はあちこちからここへ移設したものだそうで、右端が唐人雁木の旧跡碑。
天守台と、その下段の控えの曲輪。天守台はその複雑な櫓の配置から単独で「天守曲輪」と見ることも可能ですが、この下段の曲輪まで含めてそう呼ぶのが妥当なような気もします。
金属の扉が閉められていますが、何のためにあるのかよく分かりません。鍵が掛かっているわけでもないですし、この石垣上へは別の場所から簡単に上がることも出来るのですから。
写真のように、別の石段から石垣上へと上がることが出来ます。この石段は明らかに後世の改変によるものですね。旧来の石段を整備をしたのか、それとも全く新しく作ったのか…。
天守台の下段。それなりの広さがあります。築城当初からの遺構だとすると、ここも伏見城天守の移築に備えて用意された場所だったはず。いったい何に使われる予定だったのかな?
下段から見た天守台です。この角度からだと段差が小さすぎて天守台のように思えません。
パノラマモードで天守台全体を撮影。それにしても、他の三方向はまだ分かるとして、この手前の石垣上にも外側に張り出した隅櫓があったと想像すると少々鬱陶しいような気も…。
その隅櫓ですが、規模的にはかなり小型のものであったようです。さほど巨大とも言えない天守台に五重の天守と4基の隅櫓(と多門櫓)を並べるのは、当然ながら無理があります。天守と同じスケールにしたら屋根が干渉してしまいますしね。姫路城から移築されたという伝承から「姫路櫓」と呼ばれたそうですが、そんな小さな櫓が姫路城にあったとも思えず、むしろ小さな櫓を意味する「姫櫓」が転化したものと考えた方が無難ではないでしょうか。
西方向から見ています。本丸の角付近にある天守台で、これほど堀の中へ突出して築かれた例も珍しいかと思われます。全体のほぼ半分くらいは出ていますよね。東側はそれほどでもないんだけど。…いや、あの犬走りまでを含めるなら同じくらいだと言えなくはないかも?
天守台の入口は固く閉ざされています。こちらは鍵付きなので開きません。いろいろと事情があって立入り禁止なのは理解できるのですが、せめてその理由くらいは明示するべきだと思います。このすぐ下には児童遊具が設置されているので「子供の危険防止のため」とでも書かれていれば渋々ながらも納得はするのですが、何の説明もなく無愛想にシャットアウトされたのでは気分が悪いです。先ほどの存在理由の分からない扉の件もあるだけに、不信感さえ抱きかねません。日本の城郭史上でも類を見ない特殊な天守が上がった場所を見るのを楽しみに訪れる人だっているのですから…。文化財保護など別の理由もあるのでしょうが、この規模の現存天守台が一般に公開されていないというのはかなり異例であることも事実。
天守台内部(地階)の状態は非常に良好。ただ、中にはゴミが散乱。モヤモヤしますね~。
石垣上から眺めた本丸内部。ここに建てられていた御殿は伏見城からの移築だったそうで、家光が上洛時に宿泊に使用したとか。落雷による火災で天守と共に焼失してしまいました。
本丸の南側。右奥に見える住宅の手前あたりにももう一重の堀(中堀)があったようです。
本丸の北西角にある隅櫓台。石垣が良好に残されていて、その上に明治天皇御駐蹕址の碑が立っています。これよりも北側(二の丸)が住宅地になってしまっているのは残念な限り。
本丸西側の石垣。ここには西の丸から本丸へ入る虎口が設けられていたようです。ちょっと不思議なのは、天守台の突出部分を除くと本丸の塁線のほとんどが直線的であり「折れ」が全く見られない点。外郭部には多用されている場所もありますが、全体的な縄張りも含めて築城最盛期の頃の城郭などに比べると細かい部分がやや退化しているようにも思えますね。
稲葉神社の北側に隣接する與杼(よど)神社。いかにも歴史のありそうな名前の神社です。もともとは桂川の河岸にあったものを、明治時代にここに移したものとか。上掲の城下図の左上、桂川が合流する付近の河岸に「淀姫大明神」と書かれているのがそれにあたります。
本丸の一部分しか残されていないため、見るべき場所はそう多くもない淀城ですが、かつてその特徴的な外観を誇る天守の上がっていた天守台の石垣は一見の価値があると思います。淀駅から徒歩でも数分の距離にあるので気軽に立ち寄れますしね。駐輪場のフェンスとか、立入り禁止の天守台とか、お城好きの人間にとっては残念な点もままありますけど、今後の再整備に期待したいと思います。現状を見るに、本丸東側の水堀の復元計画はあるのかな?