山上に並び立った天守
偶然の訪城
前回、「特徴的な天守の上がった城」として淀城をご紹介しましたが、同じように特徴的な天守が上がっていたことで知られる鳥取県の米子城を今回は取り上げてみたいと思います。
米子城を訪れたのはちょうど3年前の今ぐらいの季節でした。山陰への旅行から帰る途中の列車の中で、時間的にも多少の余裕があった私は、倉吉あたりで途中下車をして町歩きでもしようかなどと漠然と考えていました。ところが米子駅に到着する直前、車窓から山頂部が桜色に染まった小山が見えたのです。瞬間的に頭の中で「桜+小山=城跡→米子城」というお城好き人間特有の連想が働き、「あれは米子城に違いない!」と勝手に決め付けて即断で列車を降りたのでした。まあ、結果的にその判断が正解だったから良かったのですけれど。
中海を背にした平山城
それまでの私の米子城に対する認識というのは「山上に並び立った天守が特徴的な平山城」という程度のもので、どんな立地で、どんな縄張りの城であったかといった具体的な情報はほとんど知りませんでした。駅前の地図で確認をしてみると、どうやら山麓にあった居館や水掘の遺構は全く現存していないようなので、そのまま城のある湊山へと直行することに。
それではここで米子城の立地を見てみましょう。
国土地理院の航空写真で見る米子城跡とその周辺の様子です。中央に見える小山が米子城の主郭部。小山の西側と南側は中海に面しており、北側の山麓にある野球場やテニスコートのあたりに居館が設けられました。そしてその小山と居館をまるごと囲むように水堀が外郭を廻っていたようです。山麓の居館部と山上の詰の城とが分離されたタイプの平山城ですね。
詰の城である湊山が中海を背にしている点などは萩城とよく似た立地のようにも思います。
同じ場所を国土地理院の地形図で見たところ。北側に尾根が突出した凸型状の湊山と、そのすぐ東側に飯山という小山が隣り合っていることが分かります。近世城郭としての米子城は湊山を中心に築かれましたが、戦国時代に最初に砦が置かれたのは飯山の方であったとか。
川や湖を背にして大小2つの小山が並び、それらをまとめて水堀で囲んで城内にしてしまう縄張りというのは犬山城とも少し似ている気がします。城にするなら大きい方の湊山だけで十分であったと思われるのですが、もし攻城方に飯山を奪われてしまったら一大事なので、その予防策としても飯山を城域に取り込んだのでしょう(出丸が置かれていたようです)。
江戸時代の米子城の姿を描いた絵図は、こちらの鳥取県立博物館の資料サイトでさまざまな種類を見ることが出来ます。中海を背にした2つの小山、山麓の居館、そしてそれらを囲む水堀の姿が共通して描かれていることからも、この城の特徴がよく理解できると思います。
二の丸大手門
上記の通りほとんど予備知識もないままの訪問であったため、城の遺構がどれくらい残っているのかも分からずに湊山の麓までやって来たのですが、いきなり目の前に登場した立派な枡形の石垣には驚かされました。それまで城跡らしい形跡が全く見られませんでしたからね
二の丸大手門の枡形です。右手前が一の門、奥に見えるのが二の門にあたり、仮に舗装道路の部分が水堀で、一の門に高麗門、二の門に櫓門があれば理想的な形なのですが、実際には堀は存在せず、一の門には門自体がなく、二の門だけに高麗門(薬医門?)が置かれていたようです。一の門に門を置かないのは豊臣時代の虎口の手法であるとも言われますが、枡形を囲む石垣の高さが足りない点、内部空間が広すぎる点など違和感も多く、大手門としての体裁を整えることに主眼が置かれ、機能面はそれほど重要視されなかったのかもしれません
中央に見える枡形の二の門を入った右側の一段高い曲輪が二の丸で、御殿が建っていました
現在は城下から移築された武家屋敷の長屋門があり、その奥はテニスコートになっています
枡形の二の門を正面から。非常に立派な構えです。右側の石垣上には二重櫓が置かれていたそうですが、もしそこから続く形で櫓門があればさぞ見事だったろうな~と妄想してみたり
枡形内部をパノラマ撮影。これだけ見事な枡形空間は地方城郭ではなかなか見られません
山頂へ
枡形から一旦外に出て、東側の登山口から上ります。それほど急傾斜というわけでもなく
ごくごく普通の山道なので、本当にここが城内であるのか疑わしく思えてきてしまうほど
山道の途中には四国八十八ヶ所の石仏が並んでいて、納め札のようなものも
貼られています。もちろんこれらは廃城後になって置かれたものでしょうね
しばらく上ると、いきなり頭上に石垣が現れます。本当に唐突な感じがしてびっくり!
さらに進むと累々とした石垣が見えてきます。この想像以上の迫力には感激しました
石垣は折り重なるようにまだまだ上へと続きます。積み方の手法がそれぞれ違っていますね
特にこの石垣は古い積み方に見えます。角石も発達していませんが、野生的で力強い感じ
こちらは逆に新しい積み方。この石垣は小天守台で、幕末に積み直されているそうです
小天守台の下は本丸の下段になります。視界が開けて見晴らし良好。桜も満開!
本丸の内部へ入るには、小天守台の脇をさらに上ります
振り返るとこんな感じ。山上の曲輪の入口部分なので、厳重な構えになっていますね
さらにもう一つ枡形空間があります。この場所には鉄御門と呼ばれる鉄板張りの
堅固な櫓門が設けられていたそうで、本丸へと至る最後の難関だったのでしょう
鉄御門を入って振り返ったところ。正面に見えるのが飯山です
本丸
本丸にある案内板。城の歴史については、私が説明するよりこれを読んだ方が早いでしょう
案内板にはこのような天守の復元CGが貼られていました。ご覧頂ければお分かりのように米子城にはなんと2つの天守が並び立っていたのです。なぜこうなったかの経緯については上の案内板に書かれている通りで、まず吉川広家が湊山に築城をした際に四重の天守が上げられ、その後に入って城を完成させた中村一忠が隣に五重の天守を上げたからなのですが、いくら築城途中で城主が変わったからといって、このように新旧の天守が並び立った状態になるということは滅多にありません。たいていは旧天守を増改築して規模を大きくしたり、解体した上でその資材を新天守に再利用することが多いからです。なぜ中村氏が旧天守には一切手を付けず、すぐ隣によく似た意匠の新天守を築いたかについては謎ですが、結果的に非常に独特な本丸の景観が生み出されることとなりました。まあ、それこそが狙いだったのかもしれず、だからこそわざわざ新天守に外観的な相似性を持たせたのかもしれませんが…
2つの天守が山上に並び立った雄姿は、こちらのサイトで公開されている再現CGが参考になります。米子城は最終的には鳥取城の支城となり一国一城令の例外として存続を許される扱いとなってしまいますが、その景観面での素晴らしさは本城の鳥取城を凌ぐどころか山陰でも随一を誇ったと言えるかもしれません。しかも2基の天守共に幕末まで生き残りました
どちらの天守も最上階の壁面が不思議な形状をしていますが、これはもともとあった望楼の高欄部分を板壁で覆ってしまった結果なのだそうです。雪の多い山陰地方の、風雨に晒されやすい山頂部に立つ天守だったため、高欄部分の損傷は無視できないものだったのでしょう
小天守台へはやや下って入る形になります。ここが吉川氏時代の天守であったと考えると、本丸より低い位置に天守が建っていたことになり少し不自然な感じもします。中村氏が城を整備した際に本丸の嵩上げをしたという説もあるようですが、山頂にある曲輪をさらに高くする必要性がいま一つ分からないんですよね。防御力を高めるためなら側面の守りを固めた方が効率的なはずですし…。そもそも、吉川氏時代の天守が最初からこの場所にあったのかどうかすらはっきりしないわけで、2つの天守が並立した経緯については謎が深まるばかり
小天守台から見下ろしたところ。山腹を段々に覆う石垣はよく見ますが、このような方形の櫓台が山の斜面に不規則に並ぶ姿というのはなかなか珍しく、まるで古代遺跡か何かのよう
小天守台から大天守台を見たところ。実に見事な石垣です
大天守と小天守の位置には平面的にも高さ的にもずれがあったため、他の城の
ように渡櫓で連結することが出来ず、間を塀で結んでいただけだったようです
Googleマップで見た米子城の本丸です。中央が大天守台、その右下にあるのが小天守台です
上から見ると、2つの天守台のそれぞれの位置関係や平面積の違いなどがよく分かりますね
大天守台の東側は石垣が階段状に積まれています
開放的で見晴らしの良い場所にある天守台のパノラマ
本丸内から見た大天守台。かなりの規模を持ちます。大きさは10間×8間とのことで
これは松本城や福山城の天守台(9間×8間)とほぼ同じ平面積だったことになります
大天守台から見た飯山。あの山を敵に占領されたら困りますので
わざわざ城内の一部として取り込んだのも理解できる気がします
大天守台の下には台形に突出した小曲輪が設けられています。左側に石段が見えるように、ここは二の丸方面から上ってきたルートの本丸下段への入口にあたるため、番所が置かれていたそうです。本来はこちら側が表ルートで、私が上ったのは裏ルートだったみたいですね
正面奥に見えるのが内膳丸。湊山の北側に突出した尾根上にある曲輪です。中村一忠の叔父であり、わずか11歳で藩主となった一忠の執政も務めた横田内膳が築いた場所であるためそう呼ばれたとか。見るからに独立性が高そうな曲輪ですよね。尾根上にある独立性の高い曲輪というと、私などは姫路城の西の丸とか、彦根城の鐘の丸なんかを連想してしまいます
中海方面を見ています。こちら側にも小曲輪(桜の木がある場所)が設けられ、遠見櫓など2基の櫓が置かれていました。米子城は海城としての性格も強く、中海の水を城内の堀へと引き込んでおり、舟溜りがあったとも言われます。水上監視も重要な任務だったのでしょう
右奥に日本海(美保湾)、左に中海、その間が弓ヶ浜。中央奥が境港になります
桜と中海
本丸の西側には仕切門が設けられ、その先は一段低くなっています
仕切門横の側面。高石垣を築いて本丸北側の守りを固めています
反対の本丸南側も急傾斜となっています
仕切門の外側から見た本丸上段。中央奥が大天守台
本丸の北側にはこのような通路があります。上段の内部を通らずに先ほど大天守台から見た番所のある小曲輪、遠見櫓のある小曲輪、そして仕切門の外側の曲輪を行き来できるようにしたものでしょうが、側面の石垣に十分な高さがあるとはいえ、やや無防備な感じもします
本丸の一番西側にある水手御門。ここから中海方面へ下ることが出来るようです
遠見櫓が置かれた小曲輪です。中海方面を遠望するだけでなく
本丸の北側を側面から守る役割も与えられていたのでしょうね
東側の番所跡から本丸上段を見上げています。米子城の中でも特に石垣が見事な場所ですね
本丸下段から直接立ち上がっている左の小天守台に対して、大天守台の下には2段の石垣が設けられており、その複雑で変化に富んだ石垣構成は私のような城好きにはたまりません!
手前の2段の石垣は、幕末に崩れてしまいそのままになっていたものを、近年になって修復したものだそうです。たしかに天守台やその他の場所の石垣とは積み方が少し異なりますね
入り組んだ石垣と満開の桜!良いものを見せて頂きました
内膳丸
名残惜しいですが、本丸を後にして番所跡から二の丸方面へと向かいます
本丸から下ると馬の背状になった尾根の上に出ます。この尾根の先端部が内膳丸
内膳丸への石段。単独でも機能する非常に独立性の高い出丸といった印象
内膳丸は二段構えになっており、これはその上段。武器庫などが置かれていたとか
内膳丸の上段から本丸方向を振り返ります。人影の見える場所が大天守台
もし天守が現存していたら、ここからの眺めはさぞ見事だったでしょうね
内膳丸を下ると二の丸ですが、現在はテニスコートとなってしまっているため横を通過して最初の枡形まで戻ってきました。他にも見てみたい場所はあったものの、時間の都合もありここで終了です。それほど広くはない城域とはいえ、見どころがいっぱいで大満足でした!
ほとんど予備知識もなく偶然に近い形での訪問となった米子城でしたが、まず山麓の立派な枡形に驚かされ、山上の累々と連なる石垣群にはさらに驚嘆させられました。全国の城郭を紹介する書籍などでは軽く触れられるだけだったり、下手をすると記載されていなかったりと不遇な扱いを受けがちなようですが、間違いなく「名城」と呼べる城だと私は思います。
近年大人気となっている竹田城とも共通する魅力があり、さすがに遠景での絵画的な美しさこそ及ばないものの、山上の石垣群の素晴らしさの面においては決して引けを取りません。古城好き、石垣好きの人にはぜひ訪れて頂きたいお城ですね。桜が満開の季節などは特に!
米子にお越しいただきありがとうございました。いまでは他県で済んでいますが、昭和の50年代の後半の高校卒業までは米子に住んでいました。
私が米子に住んでいたころは、怒涛の如くの都市開発で米子城の痕跡が無くなっていきました。外堀跡が埋められたり、後から調べて分かった事ですが、枡形の痕跡であった当時デパートの裏手のクランクが直線になっていきました。
しかし折角の都市開発も空洞化と老齢化で、商店も店じまいをして住宅になったり、更地になったりして、今残っていれば多少は観光資源になったのではないかと思うところがあります。
ねこあたま様
コメントを頂きありがとうございます。
湊山の麓に着くまでは城跡らしき形跡が全く見られず、
突然目の前に現れた石垣に驚いたものですが、以前は外堀の跡なども残されていたのですね。
周辺部の遺構が失われてしまったのは本当に惜しいことではありますが、
私は山麓や山頂部に残っている石垣の素晴らしさだけでも非常に感激させられました。
この魅力をもっと多くの城好きの人たちにも知ってほしいと思うのだけど、
なぜか城関連本などで扱われる機会も少なく、いま一つ知名度が上がらないのが残念です。
限られた時間のため、この記事に書いた範囲内しか巡ることが出来ませんでしたが、
次に訪れる際には、城全体をもっとじっくりと歩き回ってみたいと思っております。