田中光学 / TELE-TANAR C. f:3.5 10cm
謎の多いレンズ
田中光学が製造した小型の中望遠レンズです。スペック的に見れば携行用コンパクト中望遠として企画された商品だったはずなのですが、なぜか生産本数が非常に少なく現在では珍品と呼べる部類に入るでしょう。発売に至るまでの経緯にも不明な点が多く、こちらのサイトを参考にすれば、1955年11月号のカメラ雑誌記事でこのレンズに関する言及があったもののすぐには発売されず、1957年6月号になって再度の言及があり、実際に紙面上に価格付きで登場したのは同年の夏号以降であったとのこと。最初の言及から発売されるまでなぜ2年近くも掛かってしまったのか…このレンズが秘める実力を考えると、もう少し早く市場に登場していれば確実に高い評価を得られたであろうに、と残念な気持ちになります。
無限遠時の状態。たいへん小柄なレンズです。分解清掃してみたところ、前群が前玉1枚と分厚い2枚貼り合わせ玉の計3枚で、後群は薄いレンズが1枚のみでしたから、3群4枚のテレゾナータイプになるかと思われます。ライカL(L39)マウントで、フィルター径は34mm、絞りはf3.5~f22まで不等間隔のクリック付き、羽根は12枚。最短撮影距離は3.5フィート(約1m)、ピントリングの繰り出しは回転ヘリコイド式となります。
最短撮影距離まで鏡胴を繰り出したところ。このレンズには本来なら絞り値の指標が1か所しかないのですが、回転ヘリコイドのため確認するのに不便だったのか、絞り環の反対面に後改造で絞り指標が追加されています。光学系はきれいなものの鏡胴にはかなりの使用感があり、このレンズの所有者が熱心に愛用したであろうことがうかがわれて嬉しくなります。
ほぼ同時代の(サンのみ一世代古い)スペックが近似した国産Lマウントレンズたちです。
・キヤノン 100mm f3.5Ⅱ(手前左:独自構成/4群5枚)
・テレ タナー 10cm f3.5(手前右:テレゾナータイプ/3群4枚)
・トプコール 9cm f3.5(左奥:トリプレットタイプ/3群3枚)
・コムラー 105mm f3.5(中央:トリプレットタイプ/3群3枚)
・サン ソーラ 9cm f4(右奥:テッサータイプ/3群4枚)
前列2本がテレフォトタイプで、後列3本が長焦点タイプの設計ということになりますが、5本の中で鏡胴サイズが一番大柄なのがコムラー、逆に一番小振りなのがテレタナーです。ほぼ同スペックであるコムラーとテレタナーの大きさが全く異なる点が興味深いですよね。
一般的に長焦点タイプは鏡胴が長くなる欠点があるものの、レンズ構成は比較的シンプルで製造コストを低く抑えられるのが長所。一方、テレフォトタイプは鏡胴長を短く抑えられる半面、厚めの貼り合わせレンズ等が必要となり製造コストが掛かるという短所があります。そして、この両者の良いとこ取りをしたのが銘玉として名高いキヤノンレンズなんですね。
そのキヤノンレンズを隣に並べてみました。大きさはほぼ同じ(キヤノンがやや長い)で、テレタナーの方が少し重いです(実測値でキヤノンが187g、テレタナーが203g)。
レンズの構成枚数ではキヤノンの方が1枚多いものの、薄いエレメンツを多用している上に鏡胴にも軽金属が採用されているため、重量面ではむしろ軽く仕上がっている点などは流石としか言いようがありません。田中光学もテレゾナータイプという凝った設計でコンパクトさと画質面とを両立させる方針だったのでしょうが、同じコンセプトではキヤノンが、またコストパフォーマンスの面では長焦点タイプを採用した他メーカーがライバルとなり、製造コストと販売価格の擦り合わせで苦心した挙句、発売が大幅に遅れたのではないか…などと私は勝手に想像しています。あるいは小規模メーカーの哀しさで、当時輸出が好調であった13.5cmのテレタナー(TELE-TANAR 13.5cm f3.5)の生産に注力するため望遠レンズの商品点数を絞らざるを得ず、結果的に生産開始が遅れたのでは?なんて妄想もしてみたり。
外観デザイン的には前列の標準レンズ(TANAR 5cm f2/f2.8)たちと同系列であることが分かりますよね。これはレンズ設計(及び鏡胴設計)がほぼ同時期に行われたことを示しているのではないでしょうか。ただ、実際に発売された翌年には後列のような斬新なゼブラ柄鏡胴の標準レンズ(TANAR 5cm f1.9/f2.8)たちが登場していますので、どうしても古臭い印象は拭えなかったかもしれません。個人的にはこのデザインも好きだったりしますけど。
タナックV3(Tanack V3)に装着してみました。本来ならゼブラ柄鏡胴のレンズがセットされるカメラなので、この組み合わせだとやはりレンズのデザインが少し古く感じますね。
純正フードは一度も見たことがなく、私は口径が同じキヤノンの100mm用フードで代用しています。レンズの外観やサイズもよく似ているため、装着しても違和感はありません。
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このレンズの生産本数についてですが、私が過去に見かけた個体のシリアルナンバーの範囲は「No.1001x~1019x」の間に限定されており、200本前後ではないかと推定されます。おそらく頭の2桁「10」は焦点距離を意味するのでしょう。ちなみにNo.10180番台以降で「WERDEN MEISEI CO. 」というブランド名の個体が確認されており(→こちら①/②を参照)、どういう形での供給であったのかが気になるところ。13.5cmのタナーでも同じブランド名の個体を何度か見たことがありますが、総数は決して多くはないでしょう。
写してびっくり
さて、ここまでの内容なら「生産本数が少なかったコレクター向けの珍品レンズ」の一言で済むお話なのですが、実は写してびっくり、相当な実力を秘めた個性派レンズなんですよ。
その特徴を簡潔に表現するなら「抜群のキレ玉」とでも呼ぶべきでしょうか。絞り開放から高コントラストかつ高彩度で、ピントがビシバシと決まります。だからと言って決して線が太い描写をするわけでもなく、細やかな部分まで緻密に解像する描写力をも併せ持ちます。もちろん古いレンズらしい特徴も存分にあって、周辺減光が盛大だったり、後ボケが乱れてあまり美しくなかったりもするのだけど、そういった要素が同時に混在するアンバランスな感じがなんともスリリングで楽しいのです。レンズとしての総合力を比べるなら、おそらく前述したキヤノンレンズの方が安定感もあって上なのかもしれません。ただ、このタナーが持つ一点突破型の鋭い切れ味には、他では代えがたい強烈な魅力を感じて仕方ありません。
このレンズの典型的な描写です。一見すると画面の中心部と周辺部との間に大きな画質差があるように感じられ、トリプレットタイプのレンズの写りとよく似た印象を受けるかもしれません。ただ、このタナーで目立つのは周辺減光と後ボケの乱れのみであり、解像度自体は画面の四隅ギリギリあたりまで維持されるんですよ。中央偏重型であるのは確かにしても、平面性はできるだけ確保され、その上に独特なクセが乗る描写…といった感じでしょうか。
描写テスト
1:遠景を絞り開放とf8で
絞り開放。周辺減光がかなり目立ちます。口径の小さなレンズなのである程度は仕方がないとはいえ、中望遠レンズでここまで盛大な光量落ちは珍しいかもしれません。注目すべきは画面中央部で、開放から驚くほどの高解像度を誇り、次の絞り込んだ時のカットと比べてもほとんど違いがありません。周辺部は解像が少し甘くなり、四隅はさすがに厳しいですね。
絞りはf8。周辺減光も解消されて全体的に均質な画像となります。中央部の画質は開放時から既にハイレベルなため、絞り込んでも大きな変化は見られません。このレンズにおける絞り操作は被写界深度の調整と周辺部の減光緩和・画質向上用と考えて良いかと思います。
2:中景を絞り開放とf8で
絞り開放。広角レンズのような周辺減光の効果により画面に濃密感が増しています。発色の良さも加味されているでしょうか。ピントは中央部から少し右寄りに外れた位置で合わせていますが、これくらいの場所であれば解像度にそれほど変化はありません。ボケも穏やかでまったりとしており、開放値の割には立体感のある写りをしてくれるレンズだと思います。
絞りはf8。安定した写りです。コントラストも十分に高く、とても1950年代に小規模メーカーが製造したレンズの写りとは思えません。強いて気になる点を挙げるとするなら、高コントラストの代償でもあるのでしょうけど、暗部描写が少し苦手な印象を受けますね。
3:近景を絞り開放とf5.6で
絞り開放。これくらいの距離になると後ボケのクセが目立つようになります。口径食の影響も大きいでしょうが、もともと形が残る硬めの後ボケが特徴なので、近距離で背景をボカすような撮影には向きません。まあ、小型の中望遠レンズにそこまで求めるのも酷な話かと。
絞りはf5.6。少し絞れば後ボケの乱れも気にならなくなります。このレンズはどちらかといえば近景よりも中景あたりを写した方が実力を出せるレンズではないかと私は思います。
タナーで撮ってみる/カメラ:SONYα7
※写真をクリックすると、より大きな画像(1920x1280)が表示されます
※画像右下のルーペマークをクリックすると、合焦部分の拡大画像が表示されます
※撮影時の設定、データの処理等についてはこちらをご参照下さい
キレのある中心部と、妖しさを漂わせる周辺部。このアンバランスさがたまりません
少し絞ればボケも整って、安定した写りになります
絞った時の描写はあまりに端正すぎて、逆につまらなくも感じたり…
周辺減光で空の明るさが落ちるため、独特の雰囲気が出ます
後ボケは決して美しくはないのだけど、ここでは周辺減光が上手くカバーしてくれています
大口径レンズの開放描写みたいな空気感を出してくれます
絞り開放で、これくらいの距離感を撮影するのが楽しいレンズです
少し遠めにピントを合わせた時の、このまったりした後ボケがたまりません
ここではハレっぽくなっていますが、逆光にはそこそこ強いレンズだと思います
1950年代のレンズとしては発色もかなり良い方ではないでしょうか
もう少し暗部描写が良ければ…というのは無いものねだりかな
田中光学には、カメラ雑誌の広告などに写真付きで発売が予告されながら、結果的には全く市場に出回らなかった、あるいは極めて少量の流通のみで終わったレンズが何本か存在することが知られています。5cm f1.2 / 8cm f2 / 13.5cm f2.8…そのいずれもが大口径レンズであり、また今回取り上げた 10cm f3.5 もスペックや外観面こそ地味ではあるものの、光学的にはかなり贅沢な設計となっています。私が思うに、同社は1950年代の半ばあたりから高級ブランドへの転身を画策しており、そのための目玉商品としてハイスペックなレンズを何本も準備していたのではないでしょうか。ただ、その旗艦となるべき新型カメラの開発が難航、ようやく完成して飛躍への足掛かりとするはずだったタナックSD(Tanack SD)も商業的に失敗してしまい、それらを発売するタイミングを完全に逸したのではないかと…。
どんなに優れた商品を作ったとしても、製造メーカーにブランド力がなければ高い価格では売れません。高級レンズを設計・製造する技術があっても、それを適価で販売できなければ損をするだけ。世間から「2流メーカー」と認識されていたのであればなおさらでしょう。
とかく「田中光学のレンズは写らない」などと言われたり「いや、むしろ写らないからこそ面白いんだ」なんて意見を見かけたりもしますが、この10cmのテレタナーは間違いなくよく写るんですよ。カメラはともかくとして、レンズに関しては田中光学は相当の技術力を持っていたと思われます。ただ、その技術力の投入先がまだ売れる見込みのない高級レンズばかりであった点が問題で、しかも結果的にそれらが日の目を見ずに終わってしまったのは本当に残念。今回のタナーレンズの優れた描写力の裏側には、小規模メーカーが追い求めた見果てぬ夢の片鱗が見え隠れするようで、なんともいえないロマンを感じてしまうのです。