田中光学 / W TANAR 35mm f:3.5
こだわりの外観
前回に続きタナーレンズをご紹介します。このライカL(L39)マウントの広角レンズは田中光学が1955年に発売したもので、それまでは標準レンズしか用意されていなかった同社のタナック(Tanack)用の初めての交換レンズとして、望遠のテレタナー13.5cm(TELE-TANAR 13.5cm f3.5)と共に登場しています。初投入する交換レンズということで相当に気合が入っていたのでしょうか、小振りなサイズのレンズでありながら鏡胴デザインや作り込みはたいへんに重厚で、スペック以上の高級感を漂わせているようにも感じます。
シルバークロームの鏡胴に、幅広で粗いパターンの刻まれたピントリングが外観的な特徴となっています。基本デザインは同時期のキヤノンレンズ(CANON 35mm f2.3/f2.8/f3.5)やロッコール(Rokkor 3.5cm f3.5)、トプコール(Topcor 3.5cm f2.8)などと共通しているものの、やはりこのいかにも金属塊から削り出した感じのする厚みのあるピントリングには目を引かれますよね。凹凸の多い鏡胴はあまり手触りが良くなさそうに見えるかもですが、角部分にはしっかり面取りの加工が施されていますので、操作感触は全く悪くありません。
マウント側の様子。各部の作りはとても丁寧で動作面に問題はなく、メッキの状態も良好。加工技術は本当に素晴らしいと思います。このクラスでは回転ヘリコイド式を採用しているレンズが多い中、真面目に直進ヘリコイド式にしている点なども個人的には好印象ですね。
無限遠の状態。小さいですが、手にするとズッシリとした重さを感じます。フィルター径は34mmで、絞りはf3.5~f16まで不等間隔のクリック付き、羽根は6枚。幅が狭くピントリングとの段差があるため、フードなどを装着すると絞り環の操作が少し窮屈です。
最短撮影距離まで繰り出したところ。35mmなので繰り出し量はさほど多くありません。直進ヘリコイドによる繰り出しで最短撮影距離は3.5フィート(約1m)。ピントレバー付きで、無限遠ロック機構もあります。回転角は無限遠から最短撮影距離まで約180度。
田中光学製の35mmのタナーレンズ3本を並べてみました。手前が今回のf3.5モデルで、左奥がf2.8のライカLマウントモデル、そして右奥が同じくf2.8のコンタックスマウントモデルとなります。同社はカメラメーカーであると同時にレンズメーカーとしての性格も強く、自社のカメラでは採用していないマウントのレンズなども単体で製造していたようです(安価なセット販売用商品として主に海外市場へ輸出されていたとも聞きます)。
そういえば、タナーレンズは焦点距離表記が基本的に全て「cm」なのに(最初期の製品を除く)、この35mmレンズたちだけは何故か「mm」表記で統一されているんですよね。何か重要な意味がありそうにも思えるのだけど(例えば製造工場が違うとか、あるいは外部で委託生産したものだとか…)、資料が少なすぎてこれもまた永遠の謎で終わりそうです。
特異なレンズ構成
このタナーのレンズ構成はこちらのサイトの情報によると2群5枚という大変珍しい設計になっているようです。類似する光学系のレンズを探したところ、戦前のカール・ツァイスの製品にヘラー(Herar 3.5cm f3.5)という名前の同一スペックのレンズが存在することが判明しました。ヘラーは前群が3枚貼り合わせ、後群が2枚貼り合わせからなる全2群構成のレンズで、ビオゴン(Biogon 3.5cm f2.8)の廉価版という位置付けで設計されたものの、結果的にはごく少量の生産のみで終わったとか。こちらのサイトでレンズ構成図を確認することができますが、f2のゾナー(Sonnar 5cm f2)から第1群目を取り払ったようにも、テッサータイプの第1群と第2群の間をガラスで埋めたようにも見えます。テッサータイプに対する優位性は空気境界面が6面から4面に減ってコントラストを上げられる点ですが、それは同時に設計の自由度を下げることにもなりますし、さらには貼り合わせ面が増加して製造コストにも跳ね返ってくるため、素人目にはデメリットの方が多そうな気もしますね。
ところで、この珍しいヘラータイプを採用した国産レンズが実はもう1本存在するんです。これは私が分解清掃していて偶然気付いたもので、ライカLマウントのソリゴール35mm(Soligor 35mm f3.5)がそれにあたります。このソリゴールは製造メーカーが不明でして、もしかするとレンズ構成の共通性から、田中光学が製造したのでは?とも考えております。
この2本のレンズ、はたして中身は同じなのか?今回は簡単な比較をしてみることに。別に結論を出そうなどという真面目なものではないので、冗談半分、余興程度にご覧ください。
まずは前群の反射面比較。レンズの格納方法や絞りの構造の違いにより見え方に若干の違いはあるものの、どちらもよく似ていますよね。空気反射面が2つ、貼り合わせ反射面が2つなので1群3枚という構成なのは共通している感じ。また、それぞれの曲率も近そうです。
次に後群の反射面比較。こちらもよく似ていて空気反射面が2つ、貼り合わせ反射面が1つですから1群2枚という構成は共通でしょう。反射の色が少し異なるのは、タナーレンズの状態が万全ではないこともありますが、コーティング自体にも違いがあるように見えます。
最後に描写比較。左がタナーで、右がソリゴールです。以前にも掲載した比較写真ですが、厳密に言えば光線状態が微妙に異なるため正確な判断材料にはならないものの、周辺描写も含めて両者がたいへんよく似た写りをすること自体は疑いようのない事実なんですよね…。
個人的な意見では「限りなく同一に近い」と思うのですが、はてさて、どうなんでしょう?
前回のテレタナーと同様にタナックV3(Tanack V3)に装着してみました。純正のフードを所有していないため、コムラーの34mm径のもので代用。独特な外観のレンズですが、作りが良く高級感もあるためか、モダンなデザインのカメラとの組み合わせも意外と似合っていますよね。
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このレンズの生産本数ですが、こちらのサイトの情報によれば、シリアルナンバーの範囲が「No.35002~35293」の間で確認されているため300本程度ではないかとのこと。私が今まで見かけた個体も概ねその範囲内に分布していたため妥当なところかとは思うものの、実は今回ご紹介している個体が例外的にその枠から外れていて「No.35351x」と桁数が1つ多い番号なんです。頭の2桁「35」は焦点距離を意味しているようですが、この後に登場したLマウントのタナー35mm f2.8のシリアルナンバーは「No.2835xx」で始まっており、頭の4桁「2835」が開放f値+焦点距離を示しているとするなら、「3535」で始まる今回の個体の番号はf2.8モデルが登場して以降に新たに割り振られたものではないかとも考えられます。つまり「35」から始まる番号帯の他に「3535」から始まる番号帯も存在し、生産本数は300本よりも若干多かった可能性があるのかもしれません。
描写テスト
1:遠景を絞り開放とf8で
絞り開放。2群構成のレンズなだけあって、抜けの良さとコントラストの高さは抜群です。中心部の解像度は開放から既に高いものの、周辺部ではかなり甘くなり減光も目立ちます。
絞りはf8。周辺部の減光は気にならなくなりますが、解像面でまだ甘さが残っているのは残念。ただ、このあたりはセンサーとの相性もありそうなので何とも言えないところです。
2:中景を絞り開放とf8で
絞り開放。画面の中央付近に被写体を置いて前後をボカすと、周辺部の甘さや減光の効果もあって開放f値以上に立体感が出たりします。クセありレンズの活用術の一つでしょうか。
絞りはf8。平面的な被写体を撮影しない限り、これくらいまで絞ればそこそこ堅実に写りますし、発色・コントラスト・抜けの良さという点では同時代のレンズの中でも出色かと。
3:近景を絞り開放とf8で
絞り開放。近接撮影時の後ポケには非点収差の影響が目立つようになります。軽度であればザワザワ、状況によってはグルグルにもなり、上手く使いこなせば面白い効果になるかも?
絞りはf8。後ボケのザワザワはほぼ気にならなくなります。それ以外は特に気になる点もなくシャープかつ明快な写りで、案外こういった撮影が得意なレンズなのかもしれません。
4:見事なシャワーゴースト
このレンズに共通した特徴なのか、あるいはこの個体に特有のものかは不明ですが、一定の条件が揃うと見事なシャワーゴーストが出現します。このような一点からの放射もあれば…
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このように中心に円形の空白地帯が現れ、その周囲から放射されるなんて場合も(こちらの方が出やすい印象)。事前に出現の予測がしやすく、光の入射角度を変えることで発生量を調整することも可能ですから、かなり扱いやすい部類のゴーストと言えるかもしれません。
※なお、先述のソリゴールではここまで派手なゴーストは出ません。不思議なものですね。
タナーで撮ってみる/カメラ:SONYα7
※写真をクリックすると、より大きな画像(1920x1280)が表示されます
※画像右下のルーペマークをクリックすると、合焦部分の拡大画像が表示されます
※撮影時の設定、データの処理等についてはこちらをご参照下さい
開放から発色と抜けが良いメリハリのある写りをしてくれます
こういった緻密さを求めない情景描写は味があって好きですね
あまりゴーストを利用した撮影はしないんですが、これだけ見事に出ると遊びたくなります
ヘリコイド付きアダプターを使用し、本来の最短撮影距離よりも近い距離で撮影しました
レンズ内に薄いクモリが発生しているため、こういった状況ではフォギーな写りになります
周辺は崩れ気味ですが、中央の合焦部の解像力はなかなかのもの
三条通から岡崎公園へと抜けるこの川沿いの道は、歩いていて本当に楽しい場所です
遠景も、撮り方によっては空気感のある描写をしてくれると思います
発色が良いだけに、こういったシーンでは特に映えますね
なんとも言えない雰囲気の漂う写りです
その凝ったレンズ構成や強いこだわりを感じる外観から、田中光学が初めて市場に投入する交換レンズに相当な気合を入れていたであろうことが伝わりますよね。1955年といえば同社のタナック用に明るいゾナータイプの標準レンズ(TANAR HC 5cm f2)が追加された年であり、また実際の発売は大幅に遅れたものの8.5cm f2や10cm f3.5といった新レンズを準備中であるとメーカーが公表するなど、レンズ開発に最も情熱が注がれていた時期ではなかったかと思われます。そんな中で一番槍として先陣を切った本レンズの仕様が決して安物ではない、どころか他社と比べても1ランク上を目指した力作であったという点には注目すべきでしょう。前回も述べましたが、私は田中光学が1950年代の半ばあたりから高級ブランドへの転身を図っていたのではないかと考えていて、この35mmレンズはその挑戦者としての名乗り口上、「安物メーカーではないんだぞ」という消費者に向けてのメッセージが込められた製品ではなかったのか?…などと妄想を膨らませていたりします。
正直なところ、わざわざ貼り合わせの多い5枚構成という贅沢な設計にした効果がどれだけあったかについては疑問も残りますが(同じ5枚玉にするならコムラーのようなクセノタータイプにした方が堅実だったかもしれません)、2群構成という大変珍しい設計がもたらすハイコントラストで抜けの良い独特な描写を味わえるという点では貴重な存在であり、そのマイナス面も含めて使いこなすのが楽しいレンズだと私は思っています。小規模メーカーが気合を入れて送り出した一番槍は、小粒ながらも気骨のある、明朗闊達な兵でありました。