真田氏時代の上田城考/その⑨

復元案解説(前編)

前々回ご紹介しました、私の考える「真田氏時代の上田城復元案」についての簡単な解説をしようと思います。前後二回に分けますが、後編はやや大枠的な内容の妄想話になるため、今回は復元案の部分的なところを一つ一つ見ながら、私自身の解釈を述べることにします。

 

真田氏時代の上田城 復元案

こちらが私の復元案です。前々回では「A案」「B案」「A+案」の3つをご紹介しましたが、ここでは「A案」に統一します(「B案」と「A+案」は「A案」の派生形なので)。
復元案は基本的に「天正年間上田古図」と「元和年間上田城図」を最大限に尊重しており、細かい部分に個人的な想像を加えています。「惣構え」など城の外郭ラインについては主に「元和年間上田城図」を、内郭部については主に「天正年間上田古図」を参考にしました。ただ、以前も書きましたように、一般的には真田氏時代の本丸だと解釈されている上田古図の「屋形」の部分を、私は二の丸(本丸は省略されて描かれていない)だと捉えています。

ご注意頂きたいのは、ここに示す復元案は上田城が築かれた頃、つまり上田古図が描かれた天正年間ではなく、関ヶ原後に破却される直前の慶長初年の頃の姿だということです。私は上田古図に描かれた上田城はまだ未完成であったと考えていますので、それ以降に真田氏によって改修が重ねられて出来上がったと思われる、完成形としての「真田氏時代の上田城」の再現を目指してみました。なお、上田古図に描かれた天正年間の上田城の様子については前々回の「天正十二年頃の上田城復元案」で再現していますので、そちらをご参照下さい。

天正年間上田古図(模写)
「天正年間上田古図(模写)」
元和年間上田城図
「元和年間上田城図(模写)」。復元にあたっては、この2つの絵図を参考にしています

 

 

①城の北側について

外郭部については前回も詳しく書きましたので、ここからは内郭部を中心に解説します。

復元案A/江戸時代比較
北側の拡大図。画像をクリックすると、江戸時代の上田城との比較画像が出ます

まずは城の北側から。上田古図に見られるように、半島状になった先端部に橋が架けられています。橋の位置は江戸時代の土橋に比べるとやや東寄りで、それは元和年間上田城図でも同様に見えます。南側には蛭沢川の谷跡を利用した水堀が回り込んでいて、これがどの程度西側まで続いていたのかは分かりませんが、ここでは虎口のある中央付近で止めています。その虎口は上田古図では堀の内側にあると描かれているので、これを再現しようとしてみたところ、どうにも空間的に窮屈な印象になってしまうため最終的にこの形で妥協しました。

この北側の虎口付近は解釈次第でどのような形にでも復元できそうな部分に思われますが、もともとの地形と上田古図に描かれた姿とを違和感なくまとめるのは案外難しかったです。個人的な好みを加えても良いなら前々回ご紹介した「復元案A+」になるのですが、今回は「上田古図を最大限に尊重する」という大前提がありますので、残念ながら割愛しました。

 

ところで、上の画像をクリックして江戸時代との比較画像を見て頂くと、二の丸だけでなく本丸堀の北側の部分にも微妙なズレがあることが確認できるかと思います(下図の通り)。

本丸堀北側の歪み

一見、江戸時代の堀の方がズレているように見えるかもしれませんが、実際には本丸南側の尼ヶ淵の崖のラインに対して角度がズレているのは、復元案の堀の方なのです。そのため、正方形に近い江戸時代の本丸に比べると、復元案の真田氏時代の本丸は歪んだ台形のような形をしています。この原因は、本丸のすぐ北側にあった蛭沢川跡の谷地形によるものです。

 

蛭沢川の影響

上図のように、本丸の北側には蛭沢川跡の谷筋が存在していました。真田氏時代の本丸堀はこの谷筋と平行するように掘られたのではないかと思われます。「元和年間上田城図」にはかなり簡略化された状態ではありますが三重の堀が描かれていて、もし仮にこの三重の堀が存在したとするなら、上図の本丸堀、蛭沢川跡の堀、矢出沢川跡の堀によって構成されたと考えるのが自然でしょう(これは「真田氏時代の上田城 復元案B」で再現しています)。

私はこの「三重の堀」説には若干の疑問を感じますが(部分的に三重だったと思います)、少なくとも築城の際に本丸堀が計画された段階では、蛭沢川跡の谷筋との関係性が強く意識されたことは間違いありません。そして本丸堀と蛭沢川跡の谷筋の平行性を優先した結果、本丸の形が歪んでしまったのではないでしょうか。その②で触れた仙石忠政の「おぼへ書」にある「古城の歪み」こそ、この本丸堀の北側部分のことだったのでは?と私は考えます。

 

三重の隅欠

この北側部分における最大の見どころ、北東方向に三重に設けられた鬼門除けの隅欠です。本丸はもちろん、二の丸、三の丸(元和年間上田城図に倣ってこう呼ぶことにします)にも同様のものがあったと思われ、「矢出沢川の河道跡が隠滅された」という私の仮説と共に、真田氏の強烈なまでの「鬼門」に対する忌避意識をうかがうことができます。二の丸の隅欠の形はやや大げさにも見えますが、なにしろ赤丸で示した付近から発掘調査で谷地形が発見されていますので、何より物証を優先すべき、ということで図ような復元案になりました。

上田古図に見られる隅欠

「天正年間上田古図」に見る同部分(緑丸)。水堀の南西側の描線に微妙な「折れ」があるのがお分かりでしょうか?これだけアバウトな絵図であるにもかかわらず、わざわざ屈曲が描かれているというのは、そこに「何か」があった証拠だと思います(逆にきれいな曲線や直線的な部分からは何の情報も読み取れません)。私はこれを鬼門除けの隅欠だと解釈して復元案に反映させました。東側の虎口が北に寄っているのも、この図を重視した結果です。

 

本丸の隅欠
本丸の隅欠

 

 

②城の東側について

次に城の東側です。まずは「常田御屋敷」の場所について。

常田御屋敷①

その⑦でも少し触れましたが、私は上田古図に描かれている「常田御屋敷」のあった場所は後の上田藩主屋敷(現在の上田高校)とされている通説とは異なり、その西隣にある現在の上田高校グラウンドの位置だと考えています。その理由は上田古図に描かれた周辺の地形。

上図に示したように、常田御屋敷の北西と東にはそれぞれ谷地形(青丸部分)が、南側には小さな段差(緑枠)が描かれていますが、この地形条件を頼りに探してみると、該当するのは後の上田藩主屋敷となる場所ではなく、むしろ現在の上田高校グラウンドの方なのです。

常田御屋敷②

上田古図の谷地形と段差を復元案に当てはめると上図のようになります。こうして見ると、該当地は上田高校グラウンドとしか思えません。自作図なので信憑性に疑問を持たれるかもしれませんが、恣意的に地形を誇張して描いたつもりはありませんし、他の絵図と比較して頂いても構いません。同じ「屋敷」であるために「常田御屋敷→上田藩主屋敷」という安易な連想が通説化しているのかもしれませんが、どんな常識でも疑ってみる必要はあります。

ちなみに緑枠部分の段差は小規模な河岸段丘で、こちらの地形図を見る限りではずっと東の神川のあたりまで続いているようです。上田高校の敷地の南側の段差がそれにあたります。

上田高校南側

これが上田高校南側の段差です。最大で2~2.5mくらいの高さでしょうか。常田御屋敷や上田藩主屋敷は、この自然地形による段差を屋敷の南面の守りに利用したのでしょう。

上田高校とグラウンドの間の通路

上田高校とグラウンドの間にある通路です。すぐ南側には現在でも小さな谷地形が見られ、かつてはこの付近まで連続していたものと思われます。江戸時代の絵図によると、ここには二重の水堀が存在したらしいのですが、残念ながら今ではその痕跡は全く残っていません。

 

まだ、屋敷がない

後に上田藩主屋敷となる屋敷がいつ頃造営されたのかについては、詳しいことは不明です。真田信之の藩政時代である元和年間の上田城図には描かれているので、その頃には既に存在していたことは確かなのですが、信之が新設したのか、あるいはそれ以前からあったものを改修したのかがよく分からないのです。私が考えるように「常田御屋敷」が現在の上田高校グラウンドの場所にあったとすれば、上田古図の時代には存在しなかったことになります。

隅欠の違いと二重の水堀

これは、築城とほぼ同時期に設けられた北側の屋敷(後の「中屋敷」)には明確に存在する鬼門の隅欠が、藩主屋敷ではほとんど形骸化してしまっている点(上図の緑丸)を見ても、造営された年代に差があることが分かります。もしかすると藩主屋敷の隅欠は後世の改修で失われただけかも?と思いきや、元和年間上田城図の時点で既にこの隅欠の違いは描き分けられているんですね。つまり同じ真田氏の時代の中で鬼門に対する考え方が変わったことが分かるのです。それが単なる昌幸と信之の親子間の価値観の違いなのか、あるいは真田家を根本から変える価値観の一大転換(パラダイムシフト)があったことを示しているのか…。
仮に後者だとすれば、それは真田家が豊臣政権下で京や大坂へ出仕するようになり外部との接触が増えた頃ではないかと私は考えるのですが、さて、どうでしょう?

藩主屋敷跡の隅欠
藩主屋敷跡の隅欠(中央右)。城内や中屋敷のものに比べると形骸化しています

 

純粋に城の縄張り面で見ると、独立性が高く単郭の「出郭」としても機能する2つの屋敷が大手筋を南北から両袖で包むように守る構えというのは、大変理想的な形だと思われます。こういった縄張りは戦国期の山城にはよく見られ、真田氏の城では砥石城が同様の構造ですし、内小屋城なども似たような形式だと考えられますが、平城の縄張りとしては案外珍しいかもしれません。上田城は南東方面の守りがやや弱いように感じますので、その部分の強化という意味でも昌幸時代には既に屋敷は設けられていたと考え、復元案で再現しています。

興味深いのが上図の青枠で囲んだ部分で、屋敷間の水堀がなぜか二重になっています。西側の堀よりも東側の堀幅の方が狭くて窮屈そうなのがまた、造られた順序を示しているようで面白いですね。しかし、一つの堀で区切って連郭式構造にすれば良いものを、なぜ二重構造にしたのでしょう?考えられる理由としては「屋敷の間に通路を設けるため」という以外は全く思いつきません。では、そこに通路が必要とされた目的が何なのかを想像してみると、常田御屋敷/現在の上田高校グラウンドの場所が持っていた役割が見えてくる気がします。

 

備蓄蔵?

私が常田御屋敷だったと考えている場所、つまり現在の上田高校グラウンドのある場所は、上図のように城内や東隣に造営された新屋敷で使われる物資や食料を蓄えるための備蓄蔵として使用されたのではないかと考えられます。屋敷間の通路はその搬入用ですね。もちろん当時は既に「屋敷」ではなくなって、その機能は隣の新屋敷へと移されていたはずですが。

敷地の北西にある谷は、崖下の千曲川の分流へ下る通路にもなっていたようなので、水運による物資の搬入が出来ますし、城下からは屋敷地の南側を通れば大手筋を使わなくても城内に食料などを運び込めます。なかなか都合の良さそうな立地に思うのですがどうでしょう?

 

「中屋敷」南側の虎口
天正年間/元和年間/復元案

復元案にある「中屋敷」南側の独特な形状の虎口については、私の勝手な想像だと思われる方もいらっしゃるでしょうが、上の図を見ればある程度は納得して頂けるかもしれません。
「天正年間上田古図」を見ると、もともとこの場所には柵が描かれており、破却後の様子を描いた「元和年間上田城図」には、同じ場所に謎の水路が見られます。この2つの絵図から導き出された私なりの答えが復元図のような虎口なのです。こうやって並べて見てみると、すぐにでも思いつきそうに思えるのですが、ここに辿り着くまで長い年月が掛かりました。具体的な形状はともかく、この場所に似たような虎口が存在していたことは確かでしょう。

 

破却後の上田城
破却後の上田城の様子

虎口といえば、元和年間上田城図に描かれた場所をそのまま信用すべきかも悩ましいところです。図中にもあるように、破却後の上田城内は「畠(畑)」となっていたようで、ここに出入する地元の人々が埋められた堀跡に新たな道を開いたことも考えられ、その状況が絵図に記録された可能性も否定出来ないからです。なにしろ城の虎口というのは「入りにくく」するためのものなので、実用性はゼロ。日常的に使うにはもっと直線的であった方が便利に決まっていますから、本来とは違う場所にも道は開かれたでしょう。これが総石垣造りの城だったらそう簡単にいきませんが、土塁造りの上田城なら造作もないことだったはずです。
ですから、私の復元案では虎口の場所については元和年間上田城図を絶対視していません。ただ、どうやら仙石氏はこの破却後の改変をそのまま縄張りに踏襲したようにも思われ…。

 

南東の虎口

二の丸南端の虎口です。この場所に虎口を再現した根拠はもちろん上田古図に描かれているからですが、南東方面の屋敷地との連絡性や、通用口的な意味合いからも、むしろ存在することの方が自然なようにすら思います。先日までこの付近周辺では発掘調査が行われていたため、新発見があるかと期待したのですが、なにやらいろいろと残念な結果だったようで…(こちらの動画で現地説明会の様子が見られます)。発掘調査って難しいものなんですね。

 

江戸時代の様子
画像をクリックすると、江戸時代の同じ場所の様子が見られます

この虎口は、すぐ北の本丸の馬出し的な空間に接続しています。仙石氏によって復興された上田城では「武者溜」となっていた場所です(画像をクリックして比較してみて下さい)。
本丸東側の虎口は無防備な平入りになっているので、その正面を守るために何らかの工夫をしなければならないのは分かるのですが、復興後のそれはどう見ても空間を上手く生かせていません。なぜこのような姿になったのでしょう?それは、真田氏時代の遺構を中途半端な形で再現してしまったからではないかと私は考えます。特に二の丸東側の大手虎口を南側に移動させたことが、馬出しの本来持っていた機能を奪ってしまった原因のように思います。

ところで、南北両面に出入口があり、それを90度転換させて本郭へ導く馬出しというと、私は武田氏の躑躅ヶ崎館の西曲輪を連想します。真田昌幸が拠点となる城を築くにあたり、自分の由緒たる武田氏時代の居館の姿を強く意識した、というのは少し考えすぎですかね?

 

妄想二点

二の丸の堀の南端部が微妙に折れていますが(赤丸)、これは虎口前面の守りがなんとなく薄い気がしたので少しだけ手を加えてみた、というのが正直な理由です。ただ、いろいろな絵図を見てみたところ、たった一枚だけですが、この部分が同じように少し折れて描かれたものを発見してしまったのです(「元禄年間城下町絵図」/『定本 信州上田城』収録)。たった一枚だけの描写が根拠になるかどうかはともかく、そんな例もある、ということで。

一方、青線の部分は完全に私の妄想です。馬出しの土塁の裏側から本丸土橋南側の石垣上を通って本丸へと至れる「裏ルート」が存在していたのではないか、という仮説になります。敵が正面の本丸虎口に夢中になっているその横を、自由自在に出入りできてしまう抜け道があったりしたら痛快じゃないですか!というのは半分冗談ですが、実戦本意の戦国の城で、しかも城主は用兵に長けた真田昌幸。こんな仕掛けがあっても全く不思議ではありません。普段は通用の出入口としても使えますしね。ちなみに図では簡単に本丸に入れていますが、もちろん専用の虎口が用意され厳重な警備がされていたのだ、と考えることにして下さい。

 

③城の西側について

西側については簡単に。というのも、参考とする2つの絵図にほとんど情報がないので…。

江戸時代の様子
画像をクリックすると、江戸時代の同じ場所の様子が見られます

西側で見るべきポイントは2点。水堀の連絡部分(青丸)と、南西隅の虎口(赤丸)です。堀の連絡水路については「元和年間上田城図」を参考にしています。あれだけ簡略化されて描かれた城郭部分にわざわざ記入されているくらいですから、この水路が実在した可能性は高いと考えて復元図にも再現しています。この水路の一部は蛭沢川の旧河道でもあります。

虎口に関しては、絵図からはほとんど情報が得られません。上田古図にも元和年間上田城図にも城の西側には虎口らしいものが全く描かれていないのです。では一つも存在しなかったかというと、それも非現実的でしょう。隣接する小泉曲輪からは真田氏時代に利用されたと思われる痕跡も見つかっていますし、城内と行き来するための出入口は絶対に必要とされたはずです。おそらく、絵図にも描かれないくらい規模の小さな虎口だったか、破却後にその存在すら忘れられてしまうほど目立たない場所に置かれていた出入口なのかもしれません。

そもそも、仙石氏が復興した際に設けられたと思われる二の丸西虎口については、どうにも納得のいかない点があります。さほど重要性が高いとは思えない方角に不必要なほど大きな虎口が開かれている様子が無防備極まりなく感じられるからです。もしかすると小泉曲輪に何か特別な設備を設ける計画があったのかもしれないので、安易な批判もできませんけど。
とはいえ、そんな立派な虎口はいらないにしても、どうしても出入りするための設備は必要となるわけで、真田氏時代の上田城の西側でそれはどのように解決されていたのでしょう?

最もシンプルな方法は、堀に小さな木橋を架けることです。緊急時には取り払ってしまえば敵の侵入を防げますので。ただ、それだと城の西側に攻撃を集中された際に兵の出し入れが出来なくなって防戦一方になってしまいます。城の構造上、北の虎口から兵を出して水堀を大きく迂回させるくらいしか対応策がありませんし。ですからある程度の強度を持ちつつ、必要最小限の虎口を開くのが理想的なわけで、それに対する私なりの回答が上図なのです。

小さな虎口?

ただ、これは全くゼロからの想像というわけでもありません。たとえば上田古図の「屋形」の南西角をよく見ると小さな欠けが描かれています。これが何を意味するかは不明ですが、小さな出入口と解釈することだって可能です。何度も説明しているように、この「屋形」は二の丸を意味すると考えられますので、その二の丸の南西角に小さな虎口があったのでは?という考え方のヒントがここから得られたりもします。もちろん別の解釈だっていくらでも出来るんですけどね。単に裏鬼門を欠いただけ、とか…。

実は、私が西側の虎口を上図のような形にしたのにはもう一つ大きな理由があって、それは本丸、二の丸、東側の虎口等々、その他の場所の考察にも非常に深い影響を与えています。単なる妄想、偶然の一致だと笑われるのを承知の上で、次回はそれを根拠にもう少し詳しく書いてみようと思います。いえ、別にオカルトとか迷信めいた話ではないのでご心配なく。

 

西側の土塁

①奥に見えるのが二の丸南西角の土塁。私が虎口があったのでは?と考えている場所です。

小泉曲輪を望む

②その土塁の上から西側の小泉曲輪を見ています。二の丸より一段低いのが分かりますね。

写真を撮った場所と方角

上の2枚の写真を撮った場所と方角です。このあたりの土塁は保存状態も良くて見事です。

 

今回はここまでです。上田城の考察は次が最終回となります。

 

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